富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-10-30

十月三十日(日)曇のち晴。ゆっくりと朝食済ませ午前10時にチェックアウト。今日の行程は自動車がなければとても回れずタクシーを雇ふ。あちこちまわり 午後遅くには江門まで行かねばならずタクシーの運転手も行程にうまく合わてくれるかどうか。タクシーの貸し切りは1時間60元で江門まで行くのは遠距離で 有料道路と高速道路も走るので4時間でも430元とホテルのドアマンに言われるが渋々受諾。だが回されてきたタクシーの運転手が、張君というなかなか誠実 そうな若者で、いくつかの行き先を把握した上で上手くまわれるように行程も考えてくれる。ホテルを出て開平の郊外に向かうと国道沿いのあちこちの村々に古 い高層建築がいくつも並ぶ。けして珍しい建物にあらず、どの村にもかならずいくつか。日本語では「?(うだつ、卯建)が上がらない」といふ表現があるが、 その家が豊かになれば高楼を建てるのが、この「?があがる」に相当するようなものなのか、と思ふ。張君は頼みもせぬのに、わざわざ裏道に入って村の中を 通ってくれるし、いい運転手に当たった、と安堵。まずは自力村。豊 穰なる田畑に囲まれた村は今がちょうど米の収穫と脱穀の真っ直中。この村はとくに高楼建築が多く国の伝統歴史建築に指定されている。集落の入り口でここは 入場料を払い村に入る。農村で庄屋であるとか豪農の家だけが立派なら驚かぬが高楼とまでは言わぬものの殆どの農家がかなり立派な家屋敷。それに四、五十軒 の村落なのにかなり立派な小学校。通りかかった道すじにもかなり立派な学校が多し。張君に尋ねると昔から開平は教育熱心で、かなりの数の開平出身の者が広 州や香港に学び所謂「士」「師」のつく職業に従事した、と。潭江の豊かな水量で田畑が潤い屋敷と教育に投資する時代が長く続いた。開平は広東省では欧米に 留学し移民した者が多いことでも知られるが、貧しさゆへ、でなく遊学なのがこの土地。自 力村の高楼建築のうち二つの楼が内部参観に開放されているが当時の家財道具を見れば洋行の行李には羅府(ロスアンジェルス)や桑港のホテルのステッカーが いくつも張られ、写真を見れば船で甲板に白い麻の背広姿の端正な青年たち。家内の調度品や内装のドアの把手や陶器の壁掛けなど眺めていると、この開平が昨 日市街を歩いて水まわり、内装関係の店が多いのも昨日今日の産業でなく、古くから家屋にカネをかける伝統、と思わされる。それが恐らく今は、香港などから の注文で内装家具など作り売り渡す産業に続いているのだろう。司馬遼太郎氏が来たら、さぞや面白い文章を書かれたころだろう。これほど豊かな農村が戦争、 そして共産政権での混乱に遭遇する。中国の共産革命は毛沢東による貧しい農村からの蜂起による都市への囲い込み、だが、この開平の場合、貧しくないのだか ら革命も「いい迷惑」だっただろうか。幸いなことは農村が平均して経済的に豊かであるから大地主の土地の小作人への解放といった土地改革はあったにせよ近 隣の豊かな農家の糾弾であるとか家屋接収などはなく、文革で建物破壊などといった被害もなく、建物はほとんどが20世紀前半の20年代くらいに建てられて いるが、そのまま原形を保ち、ずっと居住を続け、まだかなりの高楼は実際に住んでいるといふ。村の田畑を見ても敬服するほど整地され、かといってコンク リートで水路作るような現代化はせず、鴨が田圃の水路を泳ぎ地鶏が畔を走り回り、桃源郷の如し。ちょっと立ち寄るつもりが小一時間この自力村。急いで赤欣 に向かう。赤 欣は潭江の河岸に開けた小さな都市。運河に沿ってかなり欧風の建物が並ぶ。欧州風情街と呼ばれ映画の撮影も多く映画撮影所もあり。続いて訪れたのが馬降龍 村。ここは大きな高楼建築はないが19世紀末と古い様式を遺しており、すでに高楼は鬱蒼とした竹林のなかに姿を隠し川に面した平地に村民の多くは石作りの 頑丈な屋敷を並べて住まう。不思議なのは香港にも現存するが、こういった村は多くの場合、というか殆どが城壁村であり村の周囲を高い城壁で囲むが、開平に は城壁村が全く見られない。せいぜい高楼建築の場合、二階などから玄関を見下ろし鉄砲が撃てる穴がある程度の防御。ここから今日の最後の訪問地である瑞水 楼への向かふ。瑞 水楼は開平第一楼の名前をいただく開平で最も高層の9階建ての高楼建築で、その意匠の見事さでも群を抜く。集落の手前の川沿いの土手から眺めると、午前中 からさんざん高楼を眺めてきたが「はぁ……」とため息が出るほど見事な建築。集落を抜けて一番奥が瑞水楼と、それに並ぶ高楼が二塔。瑞水楼の建物は鍵がか けられているが建物の前庭に暇そうな壮年の男がおり、管理人かと思えば張君の紹介では、この楼の持ち主の男性で1人15元で内部を案内し参観をさせてくれ るといふ。せっかくここまで来たのだから、と入って正解。黄さんという、この男性の祖父は香港で手広い商売で当てて故郷に錦を飾り1932年にこの高楼を 建てた。この建物が国の重要歴史建築に選ばれた1993年まで黄さん自身も子供の頃から、この楼に住んでいたそうで、今は開平市内に住むが週末は参観者も いくらかあるので、ここに来て参観者があれば内部を見せている、といふ。5年の年月をかけ1932年の竣工は開平の高楼建築の中では最も晩いもので高さも 意匠も最高のもの。黄さんの話では93年に退去するまで、この建物から追い出されたことも接収にあったこともなかったそうで開平は土地全体の豊かさからか 革命の荒波も他に比べればあまり被らずに済んだ様子。午 後も1時半近くなり昼飯を食べ損ねると昨日の二の舞い、と開平の地図にも名前の出ている「彪記羊肉餐館」は如何?と張君に尋ねると開平では評判の料理屋だと言う のでこの彪記に参る。張君も一緒に、と誘い三人で羊肉の葱炒め、羊と鶏肉の蒸し料理など食す。美味。運転中だから、とビールを少しだけ飲んだ張君は少し弁 舌が冴え、中国が経済成長などと喜んでいるが駐車場に並ぶ自動車の殆どが日本製でトヨタの天下、あとは合弁のドイツ車がある程度で中国で実際に何が生産で きているのか、ただ消費経済が盛んになっているだけで本当の経済成長などしていない、と厳しい主張に遭ふ。この開平から江門まで高速使っても一時間、途中 で事故だの渋滞でもあれば今日中に香港に戻れなくなるので午後三時前には店を出て一路、江門へ。張君は真面目な運転手で430元といっていたが始発から ちゃんとメーターを倒して料金表示もしており運賃だけで江門の波止場に到着すると360元余になっていた。しかも時間は6時間で4時間の約束を優に超えて いる。4時間なら240元だが430元と言われ差額が190元なら、6時間だと360元+190元で550元となるが、どんなものか、料金交渉もせずにい たが車を降りて張君に500元渡すと本人は430元のつもりでいたらしく固辞するが祝儀、ということで500元。翌日、広東省の自動車事情に詳しい知人に 尋ねたら6時間はもはや終日借り切りで160kmも走り遠地で乗り捨てなら500元は安い部類、と言われる。実際に波止場で香港からついた船の客にタク シーの運転手が5kmほどしか離れていない江門市内まで60元と提示していた程であった。500元が北や西のほうに行けば一ヶ月の収入、なんてのもある が、広東省は今日の昼飯でも三人でちょっと食べてビール2本で85元。中国の収入と物価の格差は本当によくわからない。香港への帰りの船では松本健一の 『北一輝論』を少し読み始めるがすぐに寝てしまふ。同著『竹内好論』も途中まで読んだままなのに。最近いっこうに本が読み進まず。香港に到着して晩は京笹 で食すといふ噂もあったが疲れてタクシーで帰宅。陽気なタクシーの運転手の名前が黄一水といふ名で、新潟は佐渡の青年、北輝次が支那革命に燃え名前も支那 風の一輝としたことをさきほど呼んでいて一水という名が北一輝と、更に鈴木邦男と オーバーラップする。
朝日新聞石坂啓女史が「憲法はもともと国民の自由や権利を守るために私たちが国を監視し、国が暴走しないようにするための決りのはずです。それなの に、国が国民に命じる内容を盛り込むのは、憲法の性格を百八十度変えてしまうことにつながる」と懸念表明し「国の横暴から国民の自由と権利を保障してい る」憲法改正に明確に反対を表明していた。ビデオニュースドットコムで亀井静香チャンの発言の後半を聞く。日本はの最大の問題は、戦争に負けて、本来はす ばらしい機会であったのに、過去の価値観にかわる新しいものを創り上げることができなかったこと、と指摘。戦争は勝つだけでなく支配できるかどうか、であ り、そういう意味では米国は日本経営について周到なる政策で臨み、それが60年を経た今、米国にとって最大のメリットになっている、と。具体的には日本は 米軍に安全保障上、基地をおいて守ってもらっているのではなく米国の極東戦略上の、殊に今日は対中戦略において重要拠点として国内の土地を貸与しているの であり本来は立場が逆。郵政民営化も然り。すべて米国の臨むがまま日本という国家が機能するシステムが完成し、それがいま実に見事に運用されていること。

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