富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-10-28

十月廿八日(金)晴。日本からのお土産に、と東京銘菓「ひよ子」をいただく。一瞬、鳥インフルエンザ懸念。11日に打撲した左手人さし指(英語でIndex Fingerと云うのを先日知った)の間接の痛みと腫れが全く引かず寧ろ間接が打撲直後より曲げ難くなり突き指の完治には数ヶ月必要とわかってはいるが五年後のショパンコンクール目指しピアニストとしての将来をフイにせぬため養和病院で骨科のW医師の診断受ける(これまで二回は一般外来)。診察の結果、側副靭帯(英語で言われ医学名称などわからぬが後で調べたら此処)の炎症と内出血で(って突き指の殆どがこれだが)かなり腫れがひどいので指に無理な負担(指を関節で曲げる以外の動き)与えぬよう指用のギブスをして様子見るよう言われる。ギブスや義手義足など製作する専門の技術者が骨科に来て作業。患者の症状とギブスの効果を考え数分で適切な形のギブスの設計を決めて即座に製作するのだからかなりの専門技量。早晩に独りFCCにウィスキーソーダ一杯。きちんと読もうと思い切り取ったままの新聞スクラップかなりの数を読む。尖沙咀に渡り海防道街市の徳發にて牛南麺食す。もうこの季節なら徳發で食すも暑くないかと寄ったがやはり暑く大汗。あの店の辣油はとても香りいいがかなり辛い。火曜日も北角の回味で牛南麺食しており「よくも飽きずに」と思われるだろうが名前は同じ牛南麺でも究極のあっさりの回味とかなり濃い口の徳發、用いる牛肉も同じ牛南(南は正しくは「月」扁に旁りが「南」)だが全く違う。午後七時過ぎからSpace Museumで中国映画特集で水華監督の『土地』(1954)と同監督の『林家鋪子』(1959)を二本続けて見る。『土地』は或る農村舞台に地主の所有する土地の解放運動を描く。30年代に共産主義信奉する独りの男が土地解放試みるが失敗し焚刑に処せられ中共建国の翌年50年にその男の遺した独り息子が成長し父親の意思を継ぎ、この農村の土地解放に挑む。共産主義がまだ理想に燃えた時代のリアリズム主義のプロレタリア映画。但し物語大詰めの農民蜂起で共産党の指導、毛沢東思想が連発され、建国から僅か5年目の作品だが、すでに毛沢東の神格化がこれほど徹底していたのか、と驚く。だが5年など人の思考変えるには十分なことは我が国を見ていれば6、7年前まで変人扱いされた代議士が自民党の領袖となり今では改革の指導者として国民にかなりの支持を得ている。物語は容易に創られる。胃痛あり映画の合間にコンビニで胃薬買い求め戻り『林家舗子』観る。茅盾の原作、夏衍の脚本。浙江省の水郷の町が舞台。古い町並みの実写と見事なまでの屋外と室内のセットに唖然。いやー凄い、の一言。舞台は1931年の旧正月間近、九一八事変で満州を襲った日本軍が上海にも攻め込み、この水郷の町も日貨排斥が叫ばれる。林源記という商店は(この店の名前から「林家舗子」というタイトルがついているのだが邦題は「林商店」ぢゃ林芙美子が営む雑貨屋の如し)日本製品売るため体裁も悪く事実、上海が戦禍に見舞われこの町には国貨も含め日用生活品などの物流が滞り林家も含め商店街の店々は明日の営業にも不安が募る。林源記の主人は国民党の役人に贈賄、日貨に中国製のラベルを貼る偽りで商売継続するほど胡狡くもあるが、それも商売を続けるため。誠実で家族にも使用人にも優しい主人であった。が懸命に商売しても国民党の小役人への賄賂は要るし上海から来た借金取り立てにも応じねばならず年越しの現金も工面できるかできないか、の瀬戸際。そこに上海事変で上海からの難民が多くこの町にやってくる。機転の利く若い番頭のアイデアで、これを商機に、と難民相手の一元商品(百円ショップか)が好評を博し、どうにか年を越すが、不幸は愛娘が国民党の小役人に妾にと見初められたことから始まる。主人はこれを頑なに拒否するが小役人と子分である町の理事長は林源記の営業に難癖つけ主人を逮捕、拘留する。店の有り金すべてを番頭が携え役場に行き主人を釈放させるが、娘を差し出す以外この町で商売を続ける策もない。それを避けるには夜逃げ。病身の妻が我が身はもってあと数日、主人に娘と二人で逃げろ、店には自分(妻)と番頭が残り対応する、と覚悟決め憔悴しきった主人は娘を助けるべく夜中に小舟でこの町を逃げ去る。……と人情物で芝居に出来る、明治座で森光子に主人役は小松政夫(というのは主人役の謝添が小松政夫にとても似ている……ちなみに謝添は82年に老舎の『茶館』を自ら監督し映画化)で、この筋なら十分にいいでしょう。上方の歌舞伎でもいい。だが映画の結末は翌朝に「負債かかえ廃業」と張り紙の書かれた店に町の住民が集まり大騒ぎで始まる。商店主の夜逃げなど「売り掛け」のある問屋くらいしか被害がないようだが民衆がなぜ大混乱に陥るかといへば、映画で見ていると林源記は町の住民の貧困層からも借金し利息の返済にも窮するような場面が途中に出てくるが、あれは商店にカネを預けると一定の利息が配当される仕組みが行われており、そのカネを預けた商店が夜逃げするのは銀行の倒産のようなもので被害が大きい。それで「カネ返せ」と騒ぎになる。この場面を「資本主義の走狗を人民が打ち壊すというシーン」と紹介しているサイトも見かけたが、実際には民衆は相手にされず泣き寝入りで、まだわずかに商品の残った店の中では「知らぬ存ぜぬ、主人が勝手にやった夜逃げ」と頑なにしらばくれる番頭ともう虫の息の病床の女房に楯突き、高利貸や町の有力者が国民党の小役人ととに一元でも回収してやろうと店の整理に忙しい。国民党の兵隊が民衆を散らそうと空砲を撃ち逃げ惑う民衆と街頭で民衆に踏まれ亡くなる幼子、そして河のなかを進む小舟に憔悴しきった林家の主人……で映画は終わるのだが、大詰めまでは、何とか商売を続けようと巧みに働く林家の様子がとても小気味よいが最後のシーンでは人のとてもエゴと愚かさが強調され暗澹たる思いで終わる。もともとは日本軍の侵略が不幸の始まりであり(映画の中では、侵略さえなければ日本はすでに優れた日用生活商品を生産し輸出し、中国側はそれを購買することで生活が豊かになる平衡関係であった)、具体的には水郷のこの町の国民党の小役人の悪さが林家が不幸に陥る元凶として描かれる。共産主義化した中国で、これほど社会派ではあるが明治座的な人情物で、共産主義プロパガンダの色が殆ど全くない作品が撮られていたことが驚くほど。だが当然この「革命的な思想性のなさ」が文革では毒草映画と批難され監督の水華は下放で労動改造処分、原作の茅盾は党除名処分。この映画が文革で批難されたのを「日貨排斥という民衆運動がいかにその場限りで方向性を欠いた狂騒に過ぎないかをリアルに描きすぎたから」という理由による、としている大学の先生もいるが、それは勘ぐりすぎ。たんに「共産主義的な思想性」のなさ、である。あれで共産党がこの町に進軍し悪い国民党の小役人を追い出し……とするかでもしないと。共産主義的には何の魅力もないはずの林家の主人(なにせ商売のためには贈賄も厭わぬ愛国思想も乏しい反革命的は守銭奴である)を人情味あふれる好人物と描いたところが反動映画と烙印押される。それにしても実際には、権力のまえでは「へーこら」して日々の商売では霹靂としつつどうにか生きていこうと奮闘する、この姿勢が市井のよくある市民の姿でリアリズム。それだからこそ茅盾らしさであり魯迅の流れやゾラのような世界もここに垣間見られる。このような共産中国では異色の作品を水華が遺したことは興味深い。1916年生まれの水華かなりの英才。11歳から文章の創作活動に目覚め17歳で上海復旦大学法学院に入学。左翼演劇活動に従事するが組織解散され36年にはすでに中国侵略をしている日本に敢えて留学し東京帝国大学で演劇を研究。だが翌年には中国に戻り抗日宣伝活動に従事し正式に共産党に加わり演劇から映画へと活動の場を移していく。文革が終わり名誉回復され81年には魯迅聖誕百年を記念した『傷逝』を製作。中国映画での功績から栄誉賞をいくつも受け95年に79歳の生涯を終える。この映画、17、8年前だかに当時、千代田区の区役所隣の区民センターだかで中国映画上映会が続けられており、これが上映されたが何か用事できて見逃した作品。謝添の『茶館』はそこで観ている。『駱駝の祥子』は確かZ嬢と一緒に観て日曜の夕方だか九段会館の屋上のビアガーデンで「右翼っぽい景色や」と思いながらビール飲んだ記憶あり。
▼中国の「愛国資本家」で国家副主席も歴任の栄毅仁氏逝去。享年89歳。江蘇省無錫の裕福な商家に生まれ(1916年)上海の聖約翰大学(St. John's University)の歴史学系を卒業(37年)し家業継ぐ。49年の中共建国で多くの資本家や商人が大陸を離れ香港や台湾に移る中、栄家は敢えて国内に留まり中共による建国を支持。57年には当時の副総理・陳毅が「赤い資本家」と賞し上海市副市長に弱冠41歳で抜擢される。59年には家族で所有の一切の商工業資産をば国家政府に寄贈。政府より代価として600万米ドル(当時)として受取り毎年、国営化された企業利益から配当も得ていた(文革時期まで)。同年、紡績工業部副部長(副大臣)に任命される。が66年に文革で資本家として批判され一切の公職解かれ幽閉の身。だが国家主席劉少奇すら殺された文革の中でも周恩来の指示で栄毅仁は保護され一命取留める。78年に文革結束で全国政協副主席として復活。この年、一人息子の栄智健(16、7歳であった60年頃に上海で英国製スポーツカー乗り回し友達連れて国際飯店で食事していた、というから並外れたお坊ちゃま)が中国を離れ殆ど無一文で香港に移民。智建は現在の「中信泰富(Citic Pacific)」の社主で名馬オリエンタルエクスプレスなどの馬主でもある。で毅仁であるが復活の翌年79年に中国国際信託投資公司(中信)を創設。?小平の経済開放政策の旗艦企業として成長。93年から98年まで国家副主席。「中信」の事業拡張で栄家の占める総資産は19億米ドルとすら言われる。
▼で興味尽きぬのは上海の聖約翰大学(St. John's University)(写真)である。1879年にSamuel Isaac Joseph Schereschewsky神父により創立(当初は中学のみ)の米国系Episcopal派のミッション校で、大学は20年代から40年代に「東のハーバード」と称賛され傑出した卒業生多く戦後の華人社会のかなりの指導的立場にある知識と教養兼ね備えた紳士がこの大学の出身。ミッション系の大学で中共の建国後1952年に「調整」対象となり各学部が復旦大学や華東師範大学、華東政法学院、同済大学などに編入される。台湾の淡水にある1967年創立の聖約翰科技大学はこの上海の聖約翰大学の後継校ということになっている。
▼中国国務院新聞弁公室が10月19日に発表の「中国の民主政治建設」白書が中国政府が初めて発表の政治民主化についての文書と注目を浴びている。勿論、内容が「民主政治というのは形は一つでなく、それぞれの国の歴史や状況により異なる形で政治の民主化は進められる」という主張は今更驚きもせぬが、やはり馴染めないのは中国の民主政治の建設の原則として「中国共産党の領導の堅持」「社会主義制度の長所と優勢性の発揮」「社会の安定、経済発展と民生の向上にに有利に作用する前提」「国家主権と領土の保護と尊厳」の項目が並ぶ。つまり中共一党独裁社会主義体制が前提で天安門事件のような民衆運動は認められず、これでどこが政治民主なのだ?と思うのが当たり前。だが中共的には矛盾していないのは中国共産党自身が共産主義という人民主権社会で人民を代表する党であるから謂わば「民主独裁」なので党の主導は全く矛盾を感じないのだろう。すごい話。
……本日はずいぶん中国関係の話題ばかり。

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