富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-10-07

十月七日(金)諸事に忙殺され7時15分の西湾河映画資料館での映画上映開始20分前に銅鑼湾で用事済ませ地下鉄では間に合わずタクシーも金曜晩でさすが に乗り場には列。覚悟して、かなり賭けに近いがヴィクトリア公園のCauseway Roadの高架線下でまずタクシーは来ぬが来れば乗車していけない場所にはあらぬ一角で5分ほどタクシー待つと銅鑼湾方面から偶然のように一台のタクシー 流れて参り、それに乗つてしまへば東区走廊を時速100kmで爆走し5分で西湾河。Z嬢も滑り込み。『香港の夜』の上映に先立ち主演・宝田明氏来 港でご挨拶あり(これがあるはずなので上映時間に遅れられず)。日本語に自然に出てくる英語と北京語混ぜ捏ぜで淀みなく当時の思い出話など語る。ここにヒロインの尤敏がいれば往年のカップルで華やかになるが尤敏はすでに他界してしまつたのが寂しいところ。宝 田明氏の話では『香港の夜』『香港の星』と『香港・東京・ハワイ』に続き4本目の尤敏との共演映画は脚本もポスターも出来てあとは撮影、というところまで 進んでいたのだが……と「まぼろしの四本目」の逸話を語る。当時、尤敏が打ち合せなどのために来日。帝国ホテルに宿泊の尤敏は「まだ誰にも話していないの だけど」と、打ち明けた話は、尤敏には縁談が持ち上がっており相手は澳門でカ ジノ経営する高氏の御曹司(高氏は澳門でStanley Hoによるカジノ事業独占がある前の澳門賭博四大家族だかの一つ、のはず)。どうしようかしら、と尤敏。あとで思えば宝田明に自分との結婚の意思があるの か?の問い掛けだったのかも、と。だが当時の宝田明はこの年も年に十本の映画に主演する売れっ子で結婚考える余裕もなく寧ろ尤敏のこの縁談がいかにいい話 か、と結婚を勧めてしまった、と。で尤敏はこの高氏の御曹司との結婚となり映画界から退いてしまい宝田明との4作目は実現せず。今になってお思えば……と 宝田明はくやしがつてみせ「これは極秘の逸話」といふが更にいろいろ話はありさう。尤敏は父が粤劇の名優・白玉堂で邵邨人(Show Brothersの経営者でRan Ran Show(邵逸夫)の兄)の目に叶いShow Brothers入り。その後、映画会社を国泰(Cathay、航空会社とは関係ない)に移し人気女優に。宝田明との作品は1961年のこの『香港の 夜』、そのヒットうけて63年の『香港の星』に続き63年が『香港・東京・ハワイ』を最後にフィルモグラフィー宝田明の話を合わせると確かに翌64年に 結婚し芸能界引退。96年に61歳で逝去。戦後の歌って踊れる女優・葛蘭と夫同士が兄弟。で『香港の夜』だがすでに観ている『香港の星』では宝田明は商社 マンなのだが『香港の夜』は通信社の記者。で共通点として海外勤務なのだがいずれも「ほとんど働かずオンナにうつつを抜かしている」こと。美男が一流の背 広に身をつつみオンナを追いかけ東京と香港、澳門を往来。香港映画なのだが客観的に観ると香港を舞台に日本人と上海人が勝手に恋愛している、としか映らぬ かも。欧州から南回りの航路で香港に立ち寄つた宝田明を通信社の香港特派員(藤木悠)が迎え啓徳空港から尖沙咀まで車で走り尖沙咀から中環までフェリーで 車のまま渡る。スターフェリーの波止場横にフェリーあり。藤木悠が香港は「今の推定人口が300万」(難民多く確定人口不明)で「あれが香港だ」と九龍か ら香港を指すのが印象的。香港は今では新界まで含めた総称だが当時は今より香港と九龍といふ地域感がかなり強かつたかも知れぬ。45年近く前の香港の市街 の映像なのだが当時の香港映画で市街地の風景ロケはかなり少ないのでこの映画は貴重。尖沙咀の現在のシェラトンホテルのところにあつたアンバサダーホテル や大埔道の丘陵に位置したカールトンホテル(その後、Giordanoで起業し蘋果日報の社主となつたジミー黎智英氏の屋敷近く)、そしてリパルスベイホ テルなどの実写。スタジオでの撮影もエキストラ多く使い渾沌とした市街地など大掛かり、澳門の実写も実に貴重。宝田明演じる記者には東京に懇意にする富豪 の娘(画家・司葉子)がおり、この画家の求愛。尤敏は母が日本人で戦争で生き別れの役で尤敏の母を探す宝田明記者。それに協力してしまふ富豪娘の画家。い ろいろあつて最後、宝田記者と尤敏は結ばれることが決るのだが……といふお話。この港日合作で宝田明にとつては一作目なのだが興味深いのは宝田明が達者な 英語の他すでにかなり北京語を習得していること。そして香港で夜総会のホステス役で出る草笛光子は日本語を解す上海娘役で実に見事に中国語で感情こもつた 熱演。映画終わり晩飯がまだでZ嬢と「食文化不毛地帯」太古城へ。十日程前に紛失のOctopus Cardの再発行受領を太古城のMTR站にしてしまつたため。Z嬢が、敢えて名前は挙げぬが「太古城で、行列のできる、あの坦々麺と小籠包で有名な店」が香港での開業から二年 以上たつのにまだ食したことない、そうでさすがに午後も十時近ければ行列もなし。Z嬢が「一度来たらもう二度と来ません、ね」と。御意。もともとシンガ ポールの店で(それだけであまり美味そうぢゃないが)香港の味覚音痴にウケて今では上海や北京に支店網広げる勢い。翡翠といふから美心集団(Maxim Group)系かと思ふがそうぢゃない(どうでもいいが)。だいたいにおいて冷凍庫の如く冷房のきつい店に美味いものなし。料理が供されても急激に冷める のだ。許されまじ。麦酒のつまみに頼んだ前菜の涼拌青瓜からし化学調味料かなり。評判の坦々麺もさすがに「進化」したようで、いわゆる上海系のピーナッ ツ臭い不味い平凡な坦々麺ではダメだと思つたのか店オリジナルの坦々麺に創意工夫。だが最初から辛味に加え大量の酢を用いており閉口。午後10時半閉店 で、閉店時間近づくと店員がそわそわとまだ供されておらぬ注文を各テーブル毎に確認して厨房にそれを急がせ、まだ客が食しているといふのに「ごゆっくり」 といいつつ食事中の客に会計を先に済ませ掃除始め……と唖然。まつたくひどい店だが相変わらず飽きられぬまま客足も途絶えず「客が店を作る」といふがまさ に味覚とサービスに鈍感な客がこの店を支えているのかも。
▼引退が伝えられる香港の「法の番人」どころか「体制の番人」梁愛詩司法長官の後任問題で中央政府の香港出先機関・中聯辧副主任・李剛君が司法長官は「法 律を熟知し国家と香港を熱愛し香港人が香港を統治し一国二制度を貫徹しなければならない」と強調。中共の云ふ愛国は愛党政府。司法長官の後任と噂される弱 冠41歳の黄仁龍君は自称政治家Sir Donaldのご推薦で各界からウケもいいが03年の民主化要求71デモに参加の過去が極左派土共に不評とか。
朝日新聞の論壇で寺島実郎氏が「脱9・11への転換」書いている。米国のイラク統治の実態が明らかになるなかで日本が国連理事国になれなかつた事実は総 選挙の熱狂のなかで静かに忘れ去られようとしているがアジアで日本の常任理事国入り支持したのがブータンモルディブだけといふ事実を受け止めるべき、と 寺島氏。911以降の米国のパラダイムに過剰反応し追米する日本の姿勢にアジア諸国が日本を21世紀のアジアのリーダーに認めなかつたこと。戦後の軽武装 経済国家としての非核平和主義とアジアの経済開発と安定に協力した日本の路線を矜恃をもち再確認すべき。だが寺島氏がその日本にもう一度、技術尊びモノ作 る産業力、それと北東アジアの2兆円の資金をばアジアに還流させ共同利益化図るプロジェクト推進挙げるのだが、現実には高度なモノ作りの技術も若者の労働 からの回避と非産業化(ニート?)で風前の灯、アジアの豊かな資金とて郵政民営化を見ればその資金をば米国市場に放出する売国奴政府では今さらもう将来は ない。寺島氏の理想も叶わぬ現実。
▼左丁山氏が蘋果日報の随筆で書いていたがスプリンターズSでのSilent Witness馬の中山競馬場での勝利に際してサイマルキャスト中継された香港の沙田競馬場は、この日が国慶盃もある国威発揚競馬日で当日馬場で中国国旗 の小旗配られたが午後4時半の国慶盃ではダービー馬・爪皇凌雨が雨を招いたのか雷鳴轟き驟雨あり。そのとき競馬場には「国旗を侮辱することは違法行為で す。皆さんご注意を!」と放送が流れた、といふ。何事かと左丁山氏思って観衆席見渡せば俄かの雨に人々が小旗で雨を凌ぎ、濡れて汚れた国旗が地面に捨てら れて、のこと。それほど神経質になるのなら出口に「国旗回収箱」でも設ければよし。持ち帰られた国旗がどうなるのかも誰もわからず、と左氏。さらに左氏が 憤慨するのは、そこまで国家国旗に神経使つてみせておいて、逆に中山競馬場からの中継が沙田競馬場に映つても沙田は沙田で次レースの実況の関係で Silent Witness馬の表彰式中継せず中国国旗掲揚国家吹奏も次レースのあとに録画で流す始末。日本ではSW馬が日本の競馬ファンに声援で迎えられているのに 香港はその現場中継すら軽視。だがSW馬が外国馬で馬主と調教師が葡萄牙澳門人で騎手もガイジンでは北京中央の指導者も余り関心なしか、と。

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