富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-09-23

農暦八月廿三日。秋分。台風余波。昼は曇空にギラギラと太陽の照りつけあり黄色に光 る市街。早晩から雨雲張り出し小雨模様。Z嬢と銅鑼湾に待ち合せ。不安定な天気に外を歩くを厭ひTimes Squareに入り13階のShootersなるメリケンダインにてエール一飲。Z嬢来る迄いくつか急ぎのメールなど済ます。この店の中で店の無料のWi -Hiの他にこの建物集合体がWharf系であるから i-Cableなど4つもWi-Hi接続が可能なることに驚く。ノートブック一台あれば何処でもオフィス。Z嬢来て簡単に食事済ませMTRで西湾河。香港 電影資料館。八月は抗日戦期映画特集に続き今月は早期港日電影交流といふ特集で1950年代から60年代の香港と日本の共同制作による映画特集。抗日映画 とだけ聞くと不愉快かも知れぬが抗日期と戦後の共同制作といふ両極を並べて見せることの意義。開幕上映は『断鴻零雁記』(監督:李晨風、1955年)。断鴻零雁記と言へば東洋文庫に残る呉楚帆の名著(絶版、on demand版あり)。蘇 曼殊(1884〜1918)は名は玄瑛、字は子穀。横浜に生まれ稲門に学ぶ。日中間を往来し清末の革命に寄与の文人梵語をよくし画に巧み。バイロンの詩 の翻訳などあり。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を陳独秀と共訳。と才覚溢れむばかりだが35歳で早逝。この映画は断鴻零雁記を元本に戦後の香港映画の美男 といへばの代表格である呉楚帆が制作と主演(実質的には監 督)。話は清末の広東。動乱に夢破れし革命家の蘇三郎は出家し僧となり読経の日々。あることから母が日本人であることと知り日本に渡り箱根に母親を訪ね る。箱根に滞在するなかで従姉妹の静子(紫羅蓮)と恋に落ちるのだが故郷では武昌蜂起を知り革命運動に命捧げむと蘇三郎は静子と別れ中国に戻る、といふ 話。日本の風景でのロケには松竹が協力し日本でロケ敢行。映画はじつに松竹映画のノリ。スタジオでの撮影は香港だが日本家屋の安普請(鉋もかけぬ長さもち くはぐな木材や畳のかわりに筵敷きなど)は気になるが、それなりに、は日本風情。蘇三郎の母も夫が広東人であつたから、といふことで広東語を解し伯母も従 姉妹らも恐らくかつて広東に住まひし過去あり、といふことで全員が広東語に明るい、といふ設定で役者はすべて香港の女優が日本髪の鬘をかぶり着物着て演 技。静子役の紫羅蓮のシナをつくる様や襖の開け閉めの作法まで実に見事。非常に興味深きことはこの映画の制作は先の大戦から僅か十年。「今の私たちからす ると」反日感情はまだ生々しく、なのだが、この時期にジャパネスクなる、而も中国の近代革命の革命家に日本の血が混じり革命の大事に日本に半ば亡命といふ 話。それがなぜ受入れられたのか。当然、戦争での傷跡まだ生々しき時代だが、戦争は戦争として映画制作の現場での日本の映画製作者らの対中交流であると か、中国側の日本趣味も元禄狸御殿にはならず実に確かな理解あり。而も呉楚帆が演じるのだから映画が親日的などと罵倒されることもなく五百本の呉楚帆出演 の映画の一つとして受入れられる。戦禍での侵略の事実は事実として歴史感情とは後世つくられる部分多し。反英感情がないように。戦後の日本が戦争での侵略 行為への認識不足や教科書での記述「配慮」などがあるのに比例して、そして国内問題のガス抜きとして、反日感情や戦争の被害に関する強い認識などは深まる といふこと。

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