富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-09-05

九月五日(月)快晴。昨日の陰鬱なる雨空一転し雲一つなき快晴。気温摂氏三 十度ながら湿度低く甚だ快適。早晩にジムで一時間約10kmトレッドミルにて走る。要減量、なら運動ばかりか生活すべて節制すべきところ帰宅してズブロッ カをロックでさつと二杯飲んでは元も子もない。ジムでテレビモニタに報道番組映り携帯のラジオにて音声聴取可。三十分の報道のうち十分を香港鼠楽園に当て る。米国のNew Orleansの惨状、米国が民主と平等社会に非ず貧困なる差別社会であると市民泣いて訴える。晩のNHKニュース10にて今井環は「なぜアメリカのよ うな豊かな国で?」と疑問提示していたが『マルコムX伝』であるとか本多勝一の『アメリカ合州国』を高校生の頃に読み「現実はこんなものか」と思わされた が当時から根本的に何も変つておらず。
衆院選挙。民主党はもつた簡単に「政権交替してみませんか?」と訴えるだけでよし。小泉賛成は郵政民営化について郵便貯金37兆円については触れるのを 避け「33万人の公務員が削減できるのです!」とわかり易い説得。一国の首相としてレベルの低いこの演説にレベルの低いワイドショー以外関心のないオバサ ンが「純ちゃーん、頑張ってー!」と声援。普段あまり人に相手にされていない人にとつて「ずっと人にあまり相手にされてこなかった」小泉三世が頑張ってい る姿は自己の投影。小泉自民党圧勝は濃厚。これまで自民党に投票してこなかつた、この人たちが政局動かす。小泉三世は己れが首相として有終の美を飾るため 郵便事業に携わる33万人をまるで諸悪の根源、邪魔者の如き扱い。33万人全員が小泉自民党に烽火をあげるだけで多少は政局も流動か。「私が首相になれば 郵政民営化はやる、とわかっていて私を自民党は総裁、首相にした。それなのにいざ私が郵政民営化しようとすると反対する、これは……」と小泉三世訴えるが 問題は郵政民営化の是非だけに非ず小泉三世の暴走に対する党内の反発。それが、反発派は旧来の自民党の体質、の象徴となり小泉三世はそれを変えるために自 民党が割れる危険犯してまで党内改革に挑んでいる、となる。あまりの弁舌に自分で酔つたか小泉三世、郵政民営化の実現に向け「堪え難きを堪え……」と口に したが、さすがに「忍び難きを忍び」とまで言つてはまずいか、と躊躇し「堪え難きを堪え……これまで郵政民営化の実現に向けて」と演説。何でも口にできる 人。「本来、郵政改革は民主党が言うべき」「なぜそれを自民党が」「なぜ小泉が」と民主党に流れる票も取り込み。間違いない小泉圧勝であらう。
比較文化論。海外にいる日本人の高校生とか大学の専攻に「比較文化論とかがいいと思って」といふ学生少なくなし。少なくない、どころか多い。海外に生活 することで日本と海外の文化を比較研究できる、といふ安易な考え。同じ環境でも日本と海外の政治、法体系でなく文化というのが「そのへんにある」から手っ 取り早い。で発想が安易であるし、うまくいつてテレビの評論家か随筆家にでもなれればいいが「使い物にならない」のが事実なので「やめたほうがいい」と言 つてきた。朝日新聞比較文化論では有名な法政大学の王敏教授の「日本の秘められた文化力」といふ文章あり。王教授の結論にある、日本文化の「こぢんまり とまとまろうとする美意識の中に、しとしとと降る小雨のようなパワーが秘められている」のであり「政治や外交できしみ合ったり、歴史を教訓にできない愚行 を繰り返している今の世の中では、決して背伸びしない文化力こそ、平和のキーワードになるのではないだろうか」と、その結論に異論はない。しかし気になる のは比較文化でよく取り上げられる「一例」である。一例を見て「日本では」とか「中国では」と論じることの危なさ。例に挙げられる事象、行為の多くが、一 般的でなく珍しいから観察者の目に留まった、実は「異例」であつたり、一般的な事象や行為でも観察者の「思い込み」や誤解で分析されることも屡々。この王 敏女史の文章にも、日本人が中国で皿に盛られたアヒル料理が供されると「自然なしぐさでティッシュペーパーをポケットから取り出し、アヒルの顔の部分に そっとかぶせた」行為を取り上げ王敏女史は、それを「日本人の生き物に対する優しさの表れかしら」と述べる(笑)。このアヒルの顔に葬儀じゃあるまいし白 いティッシュかぶせる行為など異例も異例。私は見たこともない。寧ろ「やだー、恐い〜!」とか宣ふ者もいるが、アヒルの頭を齧ってみたり口にくわえて「グ ワッ、グワッ」と啼いてみせたりする輩もあり。かういふ「野蛮」な日本人も少なくない。偶然に遭遇のアヒルの頭に白いティッシュかぶせた日本人で日本人の 文化、思考全体に拡大解釈してしまふ、それが比較文化論の恐さ。このアヒルの頭にティッシュは本来、たんに「日本人にも変な人がいる」だけの話で推論も 「この人は魚の活作りを食べる時はどうするのでしょう?」と展開すれば面白いだけの話。また日本を訪れる中国人観光客に日本の第一印象を聞くと「日本では 道路でも室内でも、生活の音がすべて小さい。会話の日本語もささやきみたいに聞こえる」と言ふ。だが香港で旅行する日本人の観光客の声もデカいし日本に帰 ると新宿駅前のあのスピーカーから流れる音声広告の騒音や列車の中での車掌らのアナウンスの量に呆れる。飲み屋の酔つた客の大声など指摘する必要もあるま い。私自身、比較文化論の先生に延々とステレオタイプ化された日本社会について、それも楢山節考から、で話され閉口したことあり。比較文化論の恐さ。
▼最近あまり引用もせぬ信報の林行止専欄だが(八月の多くは休暇中で書き溜めの文章など多く、それも「便所」や経済学理論など林氏の個人的関心強き事項多 し)スクラップ読んでおれば八月廿九日の専欄に「派米」についての文章あり。派米は「平安米」の施し。平安米は毎年、夏の終わりの盂蘭盆の季節に慈善団体 が言わば義援米を老人家に配る習わし。昔からあるが「気持ち程度」の施しがここ数年規模拡大し給付の米の量も5kgや10kgまで多くなり老人とはいつて も気力体力ある老人らいくつもの義援場所周つての平安米収穫がエキサイト。数時間並んでの平安米の配給開始で怪我人どころか、ついに心臓発作だかで死者ま で出る始末。この死し老女が倒れた現場をテレビカメラがとらえていたが長蛇の列に並ぶ者が一瞥しただけで助けもせず。驚き。それにしても貧困ならまだしも 「家族からは要らない」と言われていても平安米を数時間並んで得る事実。派米が老人をなぜここまで興奮させるのか。自宅からの交通費、待ち時間など考えれ ば数kgの米を得てもお得とは思えぬ、といふのが一般的な見方だが、と林止行氏は述べて「だが、実は経済学的に「総価値」で考えれば、けして理解しえない わけでもない」と。面白い。米ぢたいは僅か数キロであるが、この派米に参加する老人らのために派米の福利団体が提供する(米の準備のための支出以外の) サーヴィス、また警察が警官を派遣し現場の整理にあたり、負傷者が出ること消防署が救急車を動かし医療機関も負傷者の介護に当たる事実、などなど派米に関 わる様々なコストを総計すると、数kgの米の総価値はかなり上昇し、それが老人らが交通費と数時間並ぶ苦行経て得る価値に相応するもの、と。学問をこう面 白く流用するのが(前述の比較文化論の怪しさとは異なり)林行止の筆致といふもの。

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