富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-08-05

農暦七月初一。快晴。昨日の日剰を綴ろうとするがCH女史に関する日剰での過去の記載見つからずM君がこの話ご存知といふことは間違いなく記載あつたからの筈で謝つて削除したかとか思案していたら結局日剰の記載終わらぬまま朝遅くM君泊まるPeninsula Hotelに向かいM君とK君の二人と一緒に地下鉄で上環。お二人とそして大成駒のDVDを焼いてくれたといふK君に土産託すべく嶢陽茶行にて鉄観音を購ふ。生記粥品専家にて朝粥。文武廟参拝。中華基督教青年會など古い建物見ながら香港医学博物館。参観。バスで香港大学。美術博物館参観。徐展堂楼から出てきたところで同美術博物館総監のY氏に遭ふ。M大学の助教授でもあるM君を紹介。Y総監に同博物館の図録から中国古典楽器の図録一冊M君に頂く。英皇書院が夏休みの工事中で、いつも閉まつている校庭に入る扉開いており古い英国式の学舎の中を眺める。西区社区中心となつている古い病院や隣角に残る古いタイプの公共浴室(画像)など見て西環の源記で緑豆沙など食す。バスで中環。ハリウッドロードの家具屋を再び覗き歩いてFCCにビールで涼を癒しお二人はパスタ。余は昼からウオツカライムソーダなど飲んで気分はヘミングヱーか。尖沙咀に戻りホテルで午睡のM君。弟子のK君の希望で香港歴史博物館にお連れする。折りから19世紀前半に華南に暮らし数多くの絵を残した英国人画家George Chinneryの絵画展あり参観。Chinneryは当時の肖像画家で、画才はけして歴史に残るほどではないが19世紀前半、つまり英国の香港統治以前の華南に滞在。広東から後にマカオに長く住まふ。Mandarin Oriental Hotelに彼の名を冠りChinnery Barがあり由緒あるバーゆへ、さぞや香港に名を残す画家かと信じるが実は彼は開闢前夜の殺伐とした香港好まず実際には香港の風景画は余り残しておらず。このホテルが名を戴いたのは昔の植民地的華南へのnostalgieゆへ。だが今回この歴史博物館が彼の絵を180張だか蒐集せしことは立派。 Chinneryの現存するほぼ全ての作品網羅。肖像画の多くは現HSBCなど古くからの英国系企業などで、そのオフィスや幹部用住宅の「壁のインテリア」扱いで残つているもの。当時の肖像画家から一歩出ておらぬChinneryの絵に強い印象ないが当時この地に西洋画家などほとんどおらぬ中で歴史資料としてChinneryの絵が現在に遺つた由。ホテルに戻りM君と三人で歓談。地下鉄で香港島に渡りタクシーで余の拙宅。M君 に彼の著作「身体をつくるもの」の収まる岩波講座『歌舞伎文楽』の5巻『歌舞伎の身体論』に署名願ふがM君は固辞。余の蔵書眺め村上君くらいからしか聞けぬ話いくつも。読書談義などできる友も少なくなりき。晩にZ嬢と四人で太古坊の同楽軒に食す。冷菜からどの料理も及第だが何といつても富豪炒飯は格別。M君とK君をホテルに送る途中バーRで一杯だけさつと飲む。ホテルに戻るお二人と中環で別れ帰宅。M君の話の面白さ綴れば枚挙に暇ないが例えば二階建てのトラムに乗れば「祇園の山鉾のよう」で走り出せば博多山笠かと笑ひZ嬢が中学の頃にソフトボールの投手であつたといへば「あなた、巴御前みたいだ」となる。もうかういふ会話も我らの世代で終わるのだろうか。
▼築地のH君より中村屋一門の若い大部屋役者が覚醒剤で逮捕されたと一報あり。 「中村屋ならしょうがない。ポンは先代譲り」とH君つぶやく。若い方は誰もわからぬであろう昔の話。それにしても中村屋勘三郎襲名に沸くが息子だの弟子 だのの「不祥事」後を絶たず。
自民党荻原健司先生。七月に自民党の首相の靖国参拝慎重派議員の勉強会に参加。一般的には「人寄せパンダ」「集票装置」「多数決での人数合わせ」に利 用されることばかりのスポーツマン&タレント出身代議士多いなかで荻原先生のこの姿勢に築地のH君と耳を疑い群馬県出身で福田先生の影響か?などと勘ぐつ てみたりもしたが(七月十三日日剰)H君によれば週刊文春のアンケートで「小泉首相は8月15日に靖国神社に参拝すべき」に「やはり」丸印であつたそう な。つまり靖国勉強会はたんに靖国神社に関する勉強会と勘違い?して参加の線が濃厚。やはり、といふべきか。
自民党といへば郵政民営化参院採決を来週月曜にひかえ衆院解散ムード高まる中で父を衆議院議長にもつ河野太郎君のメール通信が面白い。こ ちら。

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