富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月廿九日(日)Z嬢発案でランニングクラブの九名で朝九時前のフェリーで澳門。大陸からの田舎者の大量の団体客で波戸場の混雑甚だし。澳門に着き埠頭から眺めれば金沙(Sands)カジノがそびえ建ち、その手前にも何だか洋館建ち並ぶのはこれが建設中の漁人埠頭(Fishermen's Wharf)だそうでラスベガスにサンフランシスコにもともとポルトガル風の町並みなのだからもはや何でもありでの観光地化。見事。数年後には吉原の花街でも模した日本人町も出来るだろう。時間の流れ停滞した如き閑かな、夜になるとカジノのネオンだけが眩しかつたかつての澳門が今では徒花の如く咲き乱れる。地図を見れば来る度に市街が埋立で膨張してゆく様は香港どころの話ではなし。珠江の河口の泥流の浅瀬ゆへ埋立容易なこともあるがタクシーでコロアネ島に向かえばもはやタイパ島と路環(コロアネ島)の間にコタイといふ、国分寺と立川の間の国立の如き安易な地名の地区が造成され此処にも巨大なカジノリゾート建設中。ウェスティンリゾート通り過ぎ黒沙村の官立小学校前でタクシー降りる。折からAction Asiaの冒険耐久レース開催中。路環石面盆古道といふ山道に入るが路環の集落までこの古道だけではわずか1.5km、どうゆっくり歩いても四十五分あれば到着してしまふ山道。さすがにランニングクラブでトレイルもかなり熟すメンバーでそれではちょっとといふ話で路環歩行徑といふ標高100mにある散歩道を数キロ歩き澳門最高峰といっても標高172mまで登り澳門一望し路環の刑務所と少年感化院の傍らに出る。結局二時間弱歩く。路環でフランシスコ=ザビエル教会から集落の路地を散歩。昼食はRestaurante Espaco Lisbon(リスボン地帯餐庁)で秀逸なるポルトガル料理。ヴィノベルデ2本にデカンタで白と赤のビノタボロ2Lとは九人とはいへ実質飲むのは六、七人でよく飲むこと呆れるばかり。この店のポルトガル人のご主人の愛想の良さが格別。バスで市街に戻るが空は一気に好天となりワインの酔いもあり南湾大馬路のバス降りたところの公園の木陰の芝生で転寝。公園の木陰には日がな老人ら憩ふ。大陸からの田舎漢がSandsカジノなどでどんどんカネ落とすのに比べ日本人が公園で昼寝しているのかかなり不思議。この公園向かいが超級市場「パヴィリオン」でポルトガル食材だのパイプ煙草の葉、葡萄酒購入。ついに念願のKit Katの新製品Dark Noir味発見。香港では地下鉄の駅構内にかなり広告あるがスーパー、コンビニ、お菓子屋など何処にも見当たらず。ところでKit Katが「きっと勝つ」で日本では受験生に人気だそうだが発音的には「きっとカット」で入学試験で足切りされてしまふ不安はないのだろうか。公園の午睡も長引き夕方となり、ほんの少しだけ小腹空いて裏道歩いて祥記麺家にて雲呑麺と蝦子労麺。ここで解散。Z嬢とお決まりのコースで「もう晩飯はなし」を条件に更に杏香園にてアイスクリーム入り紅豆沙食す。バスでフェリー波戸場。リスボアカジノの近くにもギャラクシーなる巨大カジノリゾート建設中。澳門に何十回と来て未だにカジノに入ったこともない我にはラスベガスぶりが何か恐ろしいほど。中国人民のマネーがここで花火となつて爆発。午後六時十五分のフェリーで香港に戻る。船中、司馬遼太郎の『街道をゆく』の沖縄・先島への道の残り読了。歴史や風土に関する豊かな知識があり、それが旅により現実に目の前に様々な光景が広がることで知識が確証となり更に思考が止まること知らず広がる世界。父の遺した文庫本でところどころ頁折つた跡あり。いかにも父らしいと思える箇所も、なぜここを折ったのか想像つかぬ箇所もあり。帰宅して湯につかり久々にジョン=ダワー『敗北を抱きしめて』の続き読む。敗戦後様々な問題抱えておりながらも少なくとも戦後日本の復興に尽力したあの当時「国のかたち」的なものの存在は明らか。それがその戦後のフォーメイションがあつさりと否定され「普通の国」になるべく憲法から教育基本法、歴史の見直しまで「改革」断行。

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