富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦三月朔日。土曜日。曇。昨晩の葵青戯院での観劇で舞台が見やすくふと席を舞台前一列目から算えたら丁度「とちり」の「と」の真ん中でそりゃ見やすいわけだ、と一人合点していたら今日の朝日に「おくだ健太郎」といふ歌舞伎解説の人の文章あり歌舞伎座が「いろは」で算える座席列表示を今年から切符のネット販売や外国人に考慮して数字で123列表記にしていることを書いていた。当然「とちり」も7〜9列目となる風情の無さ。このやうな「いろは歌」の維持は自らの歴史や文化への愛しみの筈。愛国心教育より「いろは」を。昨日の新聞といへばHerald Tribune紙に紐育タイムスの記事で周星馳の映画『功夫』を手放しで好意的に紹介。唖然。トラベルの頁では今まで全く知らなかったが映画監督の(元映画監督か)フランシス=コッポラは今ではリゾートホテル経営者。中米のBelizeに高級熱帯リゾートBlancaneaux Lodgeなど経営。まさか『地獄の黙示録』の顛末がテーマパーク的に密林リゾートになろうとは。あの映画が子供ながらに何度か観て一瞬「何も意味がないのでは?」と思ったが正解だったか。本人は密林疑似体験で娘もつまらぬ映画作ってお気楽なかぎり。父がこれぢゃ娘は“Lost in Translation”のノリで奇妙な日本旅館でも経営だろうか。何も予定没き貴重な土曜日。自宅から山に入り10kmほど走り秘密基地で午後早くまで今週終わらぬ任務諸事済ます。タクシーで金鐘。以前からかなり気になっていた太古広場隣の高等法院のある政府建物に存在する「薬物資訊天地」初めて訪れる。漢名は「薬物の天地」だし英名はDrug Info Centreで此処に来ればまるでナイスなお薬の有意義な情報ゲットできそうな場所だが実際には政府保安局禁毒処の開設の麻薬撲滅教育場所で「薬物資訊天地」って名前つけたことぢたい政府の薬物なんて自分とは接することもない役人と実際に薬物なんてそのへんにいくらでもある青少年との温度差。笑ってしまふくらい健全な展示場所で実際にドラッグに渉る子らは此処には来ないはず。大麻までご丁寧に見本展示。数日前に水際で70kgだかの大麻(末端価格でHK$400萬)見つかったが大麻程度で大騒ぎするから密輸され暴力団の資金源となり若者が組織的にその傘下となる。昼食抜きで豆腐花一椀のみ。午後九龍の知る風呂屋に浴し垢抹と按摩。昏刻かなり久々にQuarry BayのEast Endでエール麦酒2パイント飲む。佐藤俊樹『桜が創った日本』読む。読了。四月の上旬に日本では多くの人が桜愛でている時にこの本読むことぢたい(といふかこの時期にこの本上梓の岩波書店も)臍曲がりだが察しよき方ならこの本の書名見ただけで明治以降に人工のソメイヨシノがいかに国家と愛国心に利用されてきたか、の書と判るし余もその分析と思って入手した新書だが内容は実際にはそれでけに済まずソメイヨシノが明治中期からいかに国家主義に結びついたかは当然として(染井吉野桜の一気に咲いて一気に散る集団性がちょうど春のその時期に政府による義務教育だのに便利だったのである)内容はそれに止まらず寧ろ白眉はソメイヨシノが国家に扱われることにより古来の山桜が「見直し」され日本の伝統の象徴の如き象徴化が山桜になされ意味を持たされていくことの分析。記号論の面白さ。しかも著者は安易にソメイヨシノを否定せず寧ろこの桜こそ日本近代を象徴するとまで言い切る。お見事。それでも桜がこうして「日本人の心」に映るようになったのは明治二十年代でわずか百数十年のこと。それをまるで日本人=桜の如く感じ入ってしまふのだから日本といふ国家とその国民のいかに短絡的な発想か。帰宅して日暮れの残照眺めながらピンクフロイド聞きながらドライマティーニ飲む。余にとってもっとも安堵のこの時間。かなり久々に自宅で夕餉。ビデオでNHK大河ドラマ義経」第13回観る。後白河法皇が幽閉された鳥羽殿をナレーションで「とばでん」と読んでいるが「とばどの」が正しいのでは?といふ意見をネット上でいくつか見受けたが鳥羽殿が「とばでん」では頼朝を呼ぶ鎌倉殿は「かまくらでん」かといふ指摘であったが後白河法皇が幽閉された建物の名であると思えば「とばでん」で仮にそこに幽閉されている人を呼ぶなら「とばどの」になるのではなかろうか。識者の教示請ふ。
ダライラマ14世が昨日十度目の来日。バチカンローマ法王の葬儀に参列せず、か。来日の日にすぐ明治神宮参拝。さまざまな宗教の対話続けるなかで神道もありだが明治神宮といふのが政治的といへば政治的。そもそもダライラマの来日ぢたいが政治的だが。
朝日新聞の連載小説は辻原登といふ作家の『花はさくら木』。次の連載小説紹介という朝日の社会面の記事に作者の言葉あるが冒頭の「徳川時代というと、鎖国に代表される狭量で暗愚な時代だったとの通年がつきまとう」って、おいおい(笑)。ヨーロッパの中世=暗黒なんて史観すら見直しされているが江戸は昔から誰も「狭量で暗愚」だなんて思ってもいません。この作家のあまりに勝手な思いこみといふか最初から筆が滑っている。
▼一昨晩、三月上旬の行政長官辞任(=更迭)から久しぶりに董建華夫妻マスコミの前に姿見せる。この笑顔。本当に「悪い人ぢゃない」のだろうが。不幸。董建華本人は6kg痩せ夫人は厳しい形相を和らげようかとイメージチェンジだが幸楽の赤木春恵似でやはり怖い。この人の顔を見るたびにSARSの時のあの防疫服姿をトラウマのように思い出すからもっと怖い。
文藝春秋六月号に石原慎太郎が「仮想と虚妄の時代」という題で現代の若者論。タイトル見ただけで「仮想と虚妄」って「そりゃアンタや」と嗤ってしまふが内容は結局、自分たちが若い頃の左右の政治的スタンス越えた元気良さに比べ今の若者は。結局は国家論に至り最終的に必要なのは「国家にしろ個人にしろ、こうした仮想の虚構の内に失われつつあるものを取り戻し、この忌まわしい現況を克服するために必要なものは何なのだろうか」で現状は外からの刺激(中国などからのバッシング)を待たないと「正当な意志表示も行い得」ぬ不健全さから脱却するために(ってこのバッシングに一番刺激受けてるのもアンタや……嗤)「この国が自前の意志を持ち直し、その意志にのっとった確たる行動を取り、その存在を明示すること」が重要で「国家民族の存続のための、ある巨きな選択を自らに強いる瞬間に立ち会うことで、我々は自らの歴史を自らの手で葬るか再生させるかを選びとることになるだろう」って具体的に何を意味するのか全く不明(昭和初期の国家改造みたいなものか、でも石原のコレと一緒にされたら北一輝だって井上日召だって不快だろうが)で結局最後は「その瞬間に備えて、今後我々が社会的に禁欲、抑制にどう努めるのか、それによって仮想の迷妄からいかに解き放たれるかが、この国家社会に耐性を備えさせその将来を大きく変えるよすがとなるだろう」で「自らの抑制によっていかにそれぞれの人生における仮想の虚妄から自らを解放するか」ってやっぱり(しつこいが)これが一番必要なのは都知事本人。自分に克己の意味で綴った文章なのだろうか。だが最後は真当でその抑制が効いて仮想の虚妄から解放されてこそ「その結果いかに真の価値をとりもどすかこそが、この国の運命を決める大きな鍵となる」と。御意。つまり我々は石原的な仮想の虚妄から自らを解放する必要があるのでした。納得。

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