富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月六日(水)曇。ドナルド曽蔭権行政長官代理が全人代常委が行政長官任期について法解釈するよう国務院に求める。民主派から香港法治手放す判断と非難轟轟。日刊ベリタに記事送稿(こちら)。四日に中国のカソリック教会事情の記事はこちら。行政長官の任期が2年でも5年でもいい、という気もするが問題は法治。香港基本法がありながら何かあれば北京中央にお伺いたてる姿勢。これでは法治など出来ぬというのが司法界の当然の意見。それに対して北京中央が最も恐れるのは政府から分権した司法による裁定。国家権力すらそれに従わなければならぬなんて共産党独裁政権に出来るわけもなし。天安門事件の司法再審査など市民団体「天安門事件の母たち」に起こされたら一大事。共産党みずからが法であり改正も解釈もその権利を有すること。香港特区政府などもともと植民地政府で自治などという高尚な観念など有さぬから火傷する前に北京にお伺い。基本法の「法解釈」は確かに基本法にも謳われているが、この法解釈請求は香港の終審裁判所が行うべきものであり(第158条)政府が裁判所飛び越して全人代に法解釈求めることぢたい基本法に抵触。マーチン李柱銘はこの法解釈請求は最後の手段だが方法は3つあり、まずは基本法に則り香港の裁判所が請求する場合、そして2番目が全人代がみずから法解釈を実施する場合、で最後が最低最悪なのが香港政府みずからが請求してしまふこと、と。御意。だが全人代常委に法解釈が委ねられてしまへば香港大学法学院の陳弘毅教授が指摘するように行政長官任期については中央政府が決定すべきことで香港の立法会や裁判所にその採決権はなく全人代基本法の拘束力について裁定を下した場合に香港の司法はそれを遵守せねばならず司法再審査請求などもできぬことになる、と。これも然り。早晩にFCCに寄りウイスキーソーダでパスタ。たまった新聞読みながらケーブルテレビで曽蔭権の記者会見眺める。Z嬢と文化中心で香港国際映画祭の閉幕記念上映で賈樟柯監督(インタビューはこちらとかこちら)の『世界』観る。昨年は『站台(プラットホーム)』を観たが今回の舞台は北京の世界公園。ここで世界各地の(という胡散臭い)歌舞音曲疲労する半分素人の芸人らが主人公。世界各地の有名な建築物などが周遊できるこのスモールワールドを舞台にしたことも実際には海外に出るなどできぬ彼らが働くこの公園の上空を北京空港から飛行機が飛び立つ。その「世界」で賈樟柯らしく、一つ一つの小さなエピソードが重ねられていく……のだがその漠然とした物語から感性乏しき我は一生懸命何かを感じようとせねばならぬ、苦手。上映が三十分も遅れ開場待ちで香港大学博物館館長のA君と遭って映画談義。やはり今年の上映作品は昨年に比べかなり遜色あり。終わってもう一つ閉幕上映のフランス映画“Words in Blue”もチケット持っていたが(開幕&閉幕上映は通し券では鑑賞不可)疲労感あり三十分遅れては深夜十二時過ぎるも必至で断念。夕餉逸していたZ嬢と日本料理「京笹」に食す。文化中心で観劇などあった晩に芝居撥ねてからなら京笹はよし。
▼SCMP紙の今日の特集記事で驚いたが印度で唯一の華字紙が発行されており『印度商報』というが、なんと手書き。1969年創刊で十年前には千部の発行部数あったが今では三百部となり一部2.5ルピーの新聞販売して毎月3万ルピー(約8万円)の赤字といふ。カルカッタ華人人口は六十年代の5万人から今では7千人ほどに減り新聞発行も風前の灯火。今ではネット活用でコストかけず新聞メディア続けることも可能だが印刷して販売し配達までする新聞の前近代制といへばそれまでだが、それを続けることの意義。
教科書検定。日本の対歴史観問題が中韓両国で焦点に。日本の感覚では「いくら謝れば済むんだ」だろうが築地のH君が見た今朝のバラエティ番組(テレ朝)ではに朱建栄教授が出演。日本人のコメンテーターに「中国人はいったい日本にどうしてほしいんでしょう。謝罪ですか?補償ですか?」と問われて曰く「「補償は30年前に決着済みです。謝罪に関しても殆どの中国人はもう十分だと思っている。ただ「日本は悪くない」とかそういうことさえ言ってくれなければいいんです。中国人や韓国人は戦争では全くの被害者です。日本人も広島長崎や沖縄で被害者としての側面を持っていることはわかりますが、中国や韓国は完全に被害者の立場なんです。だから傷に塩を塗りこむようなことをしなければ、それでいいんです」と。御意。靖国でも教科書の歴史表現などでも日本の軍事侵略の美化が行われることが対日感情を逆撫で。H君曰く対米戦争では「加害国」米国に謝罪も補償も求めない日本人のメンタリティでは中韓についてまったく理解不能国民感情というべきか、と。確かに。ジョン=ダワー『敗北を抱きしめて』を毎晩少しずつ読んでいるが、対外的には従順な無反省な民族性。ところで台湾の李登輝先生を領袖とする台湾団結連盟(台連)の党首が日本訪問中に靖国神社参拝。これもよくわからぬが朝日の記事で「靖国神社には台連の実質的指導者、李登輝前総統の兄も祀られている」って一瞬、李登輝の兄が台連の指導者だったのか?と思ってしまう書き方。敢えて句点について厳密であれば「靖国神社には台連の実質的指導者李登輝前総統、の兄も祀られている」なのだ。
▼新聞には教科書検定改憲だの記事踊るが日常の生活で歴史認識問題だの憲法問題など全く意識されもせず。どこか全く別の次元のお話。ぜんぜん関係ないような話だがプロ野球開幕で数日前に仙台では楽天が初戦。今ではスポーツ行事では当たり前となった有名歌手による国歌「斉唱」。ところで「斉唱」は多くの人が一緒に歌うことで最低でも二人が同一の旋律を和声なしに歌うこと(新潮国語辞典)。この日は堀内孝雄香西かおりがデュエットで「国歌斉唱」だったそうな。デュエットというのは二重唱、すなわち二つの声部で(男女なら女声がソプラノで男声がテノールとか)で歌うこと。国歌は間違っても勝手にアレンジして和声にしてハモったりしてはいけない(廿年以上前に「君が代」をピアノでジャズ風にアレンジして弾いて問題になった音楽教師もあり。懐かしいねぇ、あのソノシートどこにしまったままだろうか……)。で堀内孝雄香西かおりなら目をうるうるさせながら国歌デュエットしている姿も想像に易く驚きもせぬが築地のH君によれば第2戦はさとう宗幸先生が国歌「斉唱」なのだそうな。あのさとう宗幸がああいうシチュエーションで君が代を歌うなんて。ところでH君が転送してくれた河北新報(仙台のブロック紙)の記事で「さとう宗幸さんが国歌斉唱」という表現はへん。独唱なのか観衆の国民と一緒に斉唱なのか。斉唱が正しく歌うような意味に使われてはいないか。

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