富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月廿二日(火)昼に雷鳴轟く驟雨。朝日新聞大江健三郎の「伝える言葉」なる随筆に最近やたら矢面に立たされる「自由」について自由とは「理性的な自己決定」といふ。村上陽一郎もすでに掃いて捨てられたが如き「教養」を教養の復権をば説いていたが、問題は自由を謳歌する人に理性なく理性なき人に限ってまるで戦後の日本の問題が全て「自由」に原因がある如く攻撃すること。教養とて同じ。全く関係ないが千葉での酔った十九歳の青年のバスジャック。泥酔して記憶もなかったとか。でも青年は警察で「心の叫びを聞いて欲しかった」と供述。誰でも一流のコピーライター。諸事に忙殺され早晩にFCCでウィスキーソーダ一杯と海南鶏飯。Coloursixに写真現像出してラルフローレンでズボン裾直し受取り銀行により尖沙咀に渡り香港文化中心。香港映画祭開幕。開幕記念上映は中国の顧長衛・監督の『孔雀』。七十年代の中国の地方都市、映画では鶴陽市、実際には河南省新郷市の「鶴壁」地区を舞台に、気丈夫な母親と真面目な父親、その二人の三人の子、知恵遅れの長男、感性不安定な娘と真面目だったのに兄の存在が契機となり壊れた弟。たっぷりのその家族の情景見せるのだが気になるのは七十年代前半といへば文革の時代なのだが文革の片鱗すら見せず。まるで社会的には何事もなし。政治的敏感で文革に触れていないのではなく、冒頭の場面で家族が家のバルコニーで食事している時におそらく文革プロパガンダだと思われる何か出来事があり、それを次男が見ようとするのを母親が食事中だからと止める場面あり。この時代だからと言って文革を描いていなければいけないわけぢゃなく敢えて家族の物語でいいのだが、その家族の病理はとても現代的でそれが七十年代の文革の時代に設定されて本当にいいものなのか、かりに少しでも事実に基づくとすればかなり最先端のキテる家族。何度か見てみたいがたっぷりの144分はちょっと饒舌。場内にて香港大博物館館長の畏友A君と遭い秋の旅行の話少し。Z嬢と一緒になるがZ嬢は「山田洋次の映画はちょっと」でこれだけで帰宅。続けて山田洋次の『隠し剣鬼の爪』は藤沢周平原作。挨拶に立った山田洋次監督。「二年前は『トワイライトサムライ』が開幕上映に選ばれたのに『例のこと』があって上映に来られたかった」と遺憾を述べる。日本語での挨拶に通訳は英語で「例のこと」を「SARS蔓延」とはっきり訳す。「例のこと」とは何事か。観衆はあのSARSのなかでも山田洋次監督の映画を見に集まり映画終わって拍手が鳴っていたといふのに。残念。映画はとても『たそがれ清兵衛』に似ているのだが『たそがれ』よかいろいろな因縁だの交錯もするが最後のあの「まとめかた」はとても山田洋次で寅さんから何も変わっていないのは評価云々ではもはやないのかも。主人公の片桐宗蔵(永瀬正敏)がなぜ革命へと向かわず無政府主義的なテロリストにならずあゝ終わってしまふのか、が「だから代々木的だ」と民青が非難される、って感じなのが山田洋次の物語。映画終わって十二時過ぎ。MTRで銅鑼灣。空腹でそごう裏の「利苑」に雲呑麺食しバーSにて一飲。最近のポリシーとしてバーに長居せず。本当に三十分で辞す。バー主M氏に父逝去のことお悔やみ頂き何故御存知かと思えば奥様がこの日剰ご覧になっている、と。

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