富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月廿一日(月)曇。小雨あり。朝五時に目覚めてしまひ六時から少し家のまわり走る。マンションの裏手から眺めむれば朝の薄暗きなかパーカー山の山の緑もこの一月の湿気と多少の雨に緑繁ることまさに鬱葱として朝の冷たい清風が山からおりて深呼吸すれば陳腐な表現ながら生きていると実感。諸事に忙殺され一日が終わる。昼になつて昨日の自棄な走りの疲れか多少の悪寒あり。晩に自宅近所の掛かりつけのC医師の診断請ふ。診断待つ患者多し。C医師によれば熱や咳、鼻水など全く症状なく悪寒と疲労感、筋肉痛ばかりのこれはこの春のインフルエンザでここ数日患者の殆どがこれに罹っている、と。翌日の蘋果日報にはインフルエンザ蔓延公立病院では診断六時間待ち、と大きな見出し。大きな見出しといへば今日の蘋果日報は福岡の地震一面トップ。あれだけみれば天変地異の大惨禍。帰宅して服薬し早寝。
▼余の日剰03年9月に香港での1910年代の日本人の葬儀風景の写真について「葬儀場の写真みて、写真の左上に位置する岩上には大谷光瑞師揮毫の萬霊塔らしき塔あり(中略)右側の建物は寺と思うと異様だが本願寺であれば築地本願寺にも似たその独得の東洋趣味、写真奧の煙突が火葬場らしく、それでこの写真が戦前の銅鑼灣は掃桿埔に在りし日本人墓地で敷地内の建立物位置関係まで明確となる。」と綴ったことに台湾在住で大谷光瑞師のアジア事跡調査されているK氏からメールいただく。K氏によれば当時の香港のこの葬儀場について関係者の回顧に「寺院の裏に墓地、火葬場、光瑞師揮毫の「萬霊塔」があった」とあるそうで、此処が西本願寺であったことは確か。ここまでは驚かぬがK氏によれば「建築家の伊東忠太が香港本願寺の設計図を残している」そうで「実際に施工されたのか不明」とあり。余がそれを伊東忠太建築設計の築地本願寺と思ったことも素人の推測としては間違っていなかったかも。今後K氏との情報交換に期待あり。
▼維納に旅した久が原のT君よりメールあり。維納の復活祭音樂祭にて樂友協會樂堂にて維納フィルハアモニカーのマタイ傳による受難樂を聴かれたとか。羨ましいかぎり。維納の街には花屋に猫柳の枝を賣るもの多く、それは復活祭前の日曜日(廿日)は「枝の主日=棕櫚の日曜日」が基督エルサレム入場の聖日にて市民は手に手に椰子(邦語舊譯には棕櫚)の枝を投じ救世主を祝福せし故事に倣ひ椰子=パルムと獨逸語同音のパルム=猫柳を飾るが故實の由、堅き表皮を破りて芽ぐむ猫柳の枝に復活再生の力を見るが恐らく淵源と、とT君の話。折しもこの日は春分にて香港も見事に晴れ渡り暖かな心地よき日なり

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