富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農歴十二月初一。香港の社会運動家で元・立法会議員「香港の市川房枝」Elsie Tu女史の講演拝聴。英国での生まれが第一次世界大戦開戦の前年。1951年に基督教団の派遣にて来港。民生改善に尽力し老いて同じ慈善運動家の杜学魁氏と結婚。本日の話は一昨年亡くなった杜氏との半生記である“Shouting at the Mountain”に基づき、多くの部分が最愛の夫たる杜氏の半生。余も91年だかに杜氏の尊顔に拝す機会あり。杜氏は蒙古の出自にて中共誕生の翌年50年に来港。当初宿飯に窮する学徒であったが多くの人の、それも貧しい人々の援助により社会福利団体と学校まで建設。Tu女史がこの杜氏の半生のなかで短いスピーチの中で敢えて強調したのが杜氏の中日関係について。杜氏は中国と日本の友好関係樹立のなかで残念だったことは天皇の戦争責任と謝罪がきちんとなされなかったこと、と。Tu女史は杜氏と出会ったのはキリスト教通じてだが宗教を越えた人権、社会正義のために二人の半生があった、と語る。早晩に北角。ジャワロードの回味古法清湯南にて清湯牛南食す。何度も店前通りこれまで一度も食さず。確かに美味。牛南注文せば痩肉か肥肉かと尋ねられ痩肉注文せば丁寧に痩肉だけ供される。北角街市。手足の寒さ痲れるほどにて大陸の黒草羊の冷凍肉骨、花椒八角購ふ。滋養スープの為度のため。帰宅して5kmほど走る。晩食。大塚英志江藤淳と少女フェミニズム』読了。金子光晴『マレー蘭印紀行』も二度目で読み残しあり読了。シンガポールのところに朝日麦酒と豪州牛のすき焼きとあり七十年後の今日も朝日のスーパードライと豪州牛のすき焼きということは何も変わっておらぬと実感。偶然にもこの紀行の最後はスマトラで終わる。寝る前に『チボー家の人々』の気になるところ少し読む。築地のH君実家より若い頃に読んだこの本をば持ち帰りまた読み直しと便りあり。H君との談義でいくつか気になる点あり読み直し。80年ですでに76刷!で当時1巻1,200円。
▼この写真は香港在住の写真家M氏の撮影されたもの。鹹魚。いい写真なので借用して掲載。M氏のサイトはこちら。
大塚英志江藤淳と少女フェミニズム』はどくとくのまわりくどさで読みにくい点もあるが興味深い考察少なからず。いくつか拾い出せば適者生存のルールを自らにのみ適用してしまったのが江藤淳という人の人生の態度、それが今日の保守論壇との決定的な違い。江藤における「母の喪失」が「日本」に連なる「母なるもの」や国土の「自然」の解体へと重層化しており、江藤はあらかじめ「母」を失うことでそれを所与の体験とすることで母の欲望を自ら諦念している。日本のナショナリズムで必要とされえちるのは「主観的な非連続感」を贖う「一貫した物語」であり、歴史教科書の問題の本質は「伝統」の創造の一形態としてそこにあり、教科書批判の底流には「伝統」の創造あるいは捏造という遅れてきた近代的同期があり、だからこそ彼らの言説はまるでパロディのように国民国家形成時の言説を反復している。保守派による戦後日本のナショナリズムの構築も「天皇」や「君が代」という根拠を曖昧にすることで成立する奇妙さがあり、日本で再構築されている「国家」とやらが実は保守論壇から目の敵にされ続けた所謂「戦後民主主義」という仮構のレッテルを貼り替えただけのものであること。
両「村上」への批評も興味深い。江藤淳が村上「龍」に対して批判したことは「作者の名によって語られ且つ作者が作中に登場することで、語られたことのリアリティが無条件に立証されてしまう言説のあり方」で「若い作家たちが所与のものとして私小説という制度にリアリティの保証を委ねていること」。村上龍が「小説のリアリティに対して作者の腰が引けている」という事実。例えば『イン・ザ・ミソスープ』のなかでこの連載時期に「偶然起きた」神戸の少年による殺人事件をあとがきに引用することで恰もこの事件発生が予言されていたように解釈することなど、村上龍が「自分の小説がただのフィクションであることに耐えられない」こと。それに対して村上「春樹」については本名を名乗りながら小説家としての「私」の根拠を一連の虚構から成る作者に置くことで「私」の無根拠性を積極的に露わにしてしまう、もので、「私」を成立させることをめぐる春樹の禁欲性があり、「私」と歴史が徹底して乖離していることをまず確認し、そのことを立証することで初めて語りえた小説家が春樹であり、春樹を意図的な来歴否認者と見る。その出自がどこにも存在しないことを示し、そのような徹底した虚構の「私」として春樹があること。この春樹評でふと思い出したのが92年くらいだろうか香港でも春樹ブームがかなり高まりふだんあまり小説など読まぬ若者が、とくに当時の香港で西武系のLoftで働く感覚の若者の間に春樹がかなり読まれていたこと。あの当時の二十代の若者が春樹を読んだことは当時、余はたんにブームとしか理解できずにいたが、今になって思えば香港返還をひかえ歴史がひしひしと身体の近辺に寄ってきたあの時代、歴史のなかに我が身を置こうとする言説に対して、それとは対峙する、この歴史との乖離という感覚が心地よいものとして香港の若者に受け入れられたのではなかろうか……(などと、九十年代の富柏村が『香港通信』で書いていたようなノリだが)と思ったりもする。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/