富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月十二日(金)朝起きればすでに雨あがり曇り空。ホテル地下の食堂にて朝食に昔懐かしで阪急百貨店大食堂のカレーライスもあり。チェックアウトの際に二日後の投宿予定にセイフティボックス利用しようかとフロントに請えば現金など仕舞った際に「中に生ものと入ってませんよね?」と尋ねられる。真剣なのか上方だからのつっこみか。一瞬アタマ空白となり「ウニ、入ってます」と答えるが「そんなわけないがな」といふ冷視線。なぜそれぢゃセイフティボックスで「生もの」とフッてきたのか全くわからぬまま振り返れば松篁の大きな歴史物の画。シュールなる世界。一行十二名でJR山陽線で灘。建物眺めふと思えば大阪より神戸に向かうは阪神大震災のあと初。灘駅より歩いて兵庫県立美術館。英語のKobe Prefectural Museumは国立博物館がNational Museumゆへ県立だからprefectureを形容詞にしてのものだろうが英語としてヘン。素直にKobe Preceture Museumでよし。安藤忠雄の建築。午前十時の開館寸前に着けば入り口に小学生の団体おり昨年の巴里思い出し和む風景ながら唖然としたのは参観先が特別展「Louis Vuittonの意匠展」とはさすが神戸(笑)。平日の昼前も「いかにも神戸、芦屋」のオバサンと娘など多し。常設展の中の横尾忠則の絵画1966-96から見る。三島由紀夫が横尾を「サーカスの綱渡りの少女のスパンコールをはりつけたパンティに感じられるような、あるパセティックな厳粛さ。」と三島らしい言葉豊かだか一向に実態の感じられぬ文章。「われわれの故郷である子宮は、このように歯をむき出して、人を威嚇しているのである。」といふ表現など形容から四十年近くも経てば陳腐なだけ。横尾先生の柴錬の「うろつき夜太」の絵など見て横尾先生も絵が上手かったのだと今になって知る。横尾先生の描く三島由紀夫の写真「聖セバスチャン」の絵「理想と現実」には三島の肉体の前にその肉体をば照らす電灯が象徴的に描かれているのが面白いわけだが、これが描かれたのが三島死後も二十年の94年では面白さも半減。村岡三郎の「鼓動する物質」は手で触る造形でゴビ砂漠だか近くの塩の数メートル大に削岩された巨大な柱!であるとかを手に触りその感触を楽しむ。あとで盲人の団体の参観に出会いこれを訪れたらしき。それにしても気になるのは展示室の美術館員の紫の制服がセンス悪く彼女たちの坐る椅子の下に必ず置かれた非難誘導用の赤い大型電灯も気になる。非常灯、なぜここに位置するかと驚く、順路正面にある非常口の扉。A君と非常口の案内灯など天井近くにあっても火事で煙充満せば何も見えず寧ろ普段は何も見えぬ床に緊急の場合は誘導路への矢印でも灯るほうがよっぽど実用的、と話す。館外をひとり歩く。安藤忠夫の建築もその建物の空間の向こうに全くコンセプト異なる中学が見え六甲の山を隠し臨海の大階段は坐ると運河の向こうに倉庫街。水戸芸術館ほどの周囲との乖離には負けるがこの大地震後の開発地とて美術館が周囲から浮いてしまふことの問題は原因は行政なのか文化なのか。阪神線の旧線の線路越えて灘駅に戻りJRで三宮駅。生田新道の「樹(たちき)」といふステーキ屋にて神戸牛堪能。僅か十五分のみ東急ハンズ三宮店。文房具コーナーに来年の手帳並ぶがFilofaxもTimeSystemも八十年代のアイテム姿消し効率よき生活望む清教徒ブランドのフランクリンパートナーのシステム手帳並ぶを見る。わずか一駅240円の市営地下鉄で新神戸駅。新大阪発でも満員で立ち席のひかり号で岡山。車内一番端の座席と壁の間の隙間にトランクありその上にリュック置いたらオバサンが「ちょっとそこに荷物置かれたら困るのよ」と渋谷の若者よりずっと怖い。隣の喫煙車輌では立ち席の者まで喫煙に忙しく火事場の如し。この車輌に子供連れて乗る親。岡山より瀬戸大橋線茶屋町。乗換て宇野。宇野といふ港町はもっと賑やかを想像したが鉄道がぷっつりと断線するのは本四連絡船もなくなり主力の自動車載せるフェリーもすっかり本四連絡橋に客を取られたからの宇野の寂しさ。かつて連絡船の乗客に賑わったのであろふ商店街の旧墟。四国汽船フェリーに二十分余で直島に渡り宮ノ浦港。歩いて一分のみなとや旅館に投宿。商人宿。今の主な客は島北に位置する三菱マテリアルの精錬所とか。明るいうちから風呂に入りテレビぼんやりと眺め夕食は鯛の刺身に見事な蟹までついてさすが瀬戸内の宿と皆で堪能。日本酒二合。TBS系のお笑い番組太平サブロー横山やすしやすきよの漫才見てテレビ東京系の「でぶや」見てカルト「金八先生」は教師自らを被害者にして子供脅迫しドスきかせ生徒萎縮させ反省させ怒らせ結局は一致団結のソーラン節だけを十五分ほど見ただけで午後十時半に寝る。