富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月十三日(土)快晴。朝八時前に宮浦港より町営の路線バスでBenesse Art Site Naoshima訪れる。宿泊施設のパオなど点在するシーサイドパークの近くに草間女史の巨大なカボチャあり。草間女史の秘書兼助手長く務める小学から高校までの親友T君がそういへば十年近く前に瀬戸内の小島に宿泊施設もった美術館が出来て開館早々に草間女史の展示あり此処に長く滞在と語っていたこと思い出し当時月刊太陽だかにも記事あり。あれがこの直島だったかと今になり合点。ベネッセハウスに入る。安藤忠雄の建築。展示される作品も寧ろ無くしてこの建物空間だけでよいのでは?と思うほどの安藤忠雄らしさ。美術館でありながらここに一晩滞在することで、この空間をば居住空間として体感できるのだが宿泊の予約は数ヶ月先まで満室。それゆへ昨晩は直島宮浦港の旅館に泊まる。山の上に位置する別館までリフトカーにて昇る。部屋からの瀬戸内一望する眺めは絶景。ツインで一泊二万七千四百十円也。高いか安いか。ラウンジあるが営業しておらずビールの自動販売機。浜辺に蔡国強の文化大混浴なる石配置した露天風呂あり。一人六百円。施設造ったものの周囲の林の手入れ荒れ「手に余る」状態。但し『美術手帖』の直島特集で安藤忠夫の手記を読めば安藤が初めてこの島訪れた頃は鉄の精錬の影響ですっかり島の土地は荒涼として草木もなく当時に比べれば如何にこの十五年ほどで木々が育ったことか。シャトルバスでこの夏開館の同じく安藤の手による地中美術館訪れる。駐車場横の切符売り場で財布だの除き預け館内での撮影、携帯電話の使用せぬこと誓約書渡される徹底ぶり。一連の「睡蓮」の絵が並ぶモネの部屋。モネの絵を庇護ふ反射の殆どなき透過ガラスの美しさだけでも感嘆。床の大理石の立法体72万個だか敷いた床も何ともいへぬ柔らかさ。柔らかな間接の太陽光。Walter De Mariaの部屋は2m余の石球に天井に開いた長方形の窓から見事な秋空と流れる雲が映る。心地よく部屋を巡るがJames Turrellの部屋は太陽光とは一切関わりなき照明の空間で中に入る際に係員に「壁に近づくと音が鳴るようになっております」と言われ、そういふ仕掛けかと思ひ誓約書の3に「その他、係員の指示に従います」とあったので(笑)試してみようかと壁に(誓約書の1にある)触らぬ程度に近づけば実は「余り壁に近づくな」の意味のセンサー反応の野暮な音の警報チャイム鳴る。このセンサーも係員の説明も呆れる。昼に美術館のカフェで余り上手くもない肉料理。ビールと生ハムだののセットもあり「Alcohol Plate」といふ名前に笑ふ。ベネッセハウスといい地中といい若い職員ばかりで若々しさはいいが彼ら統率し仕事まとめるSupervisor格の職員がおらずちょっとのことで参観者の何かに対応できず右往左往。午後のバスで宮浦港に戻り高松行きのフェリーに乗る。瀬戸内の静かな海を一時間。やけに綺麗に整備された高松市街眺めほんの五分ほど歩き琴平電鉄高松築港駅。城跡のお堀横のこの駅から琴電に乗れば電車は市街を通り抜け地方都市でこうして市街走り抜ける市電とその混雑に今では感慨すらあり。余の故郷の街もかつては市電が走り商店街の賑わい歩道に人濫れるほどが自動車交通量の増加で市電廃止が四十年近く前、八十年代には已に旧市街の商店街から人が遠のき今では言葉絶する閑散ぶり。高松の市街も電車の車窓から眺めれば小さな店は閉業多し。琴平駅に着きタクシー雇ひ今晩宿泊のレオマの森なるテーマパークにあるホテル。二週間前に急遽この旅行決まり十一月の週末に琴平の市街に十二名の部屋取れず旅行社に何とかと勧めらる。タクシーの運転手氏に聞けばバブルの頃に七百八十億円だか費やし開園当初はかなりの訪問者あったがバブル崩壊ですっかり寂れ三年前だかに開発会社倒産し閉館。二年を経て香川の代表企業加ト吉だの琴平の旅館大手だのが再建に乗り出し数ヶ月前に復た開館とか。運転手の話では大阪まで乗る客も珍しからず六万円の車代も四人なら一人二万円、僅か三時間で自宅前まで。大阪からならタクシーは五千円超せば半額といふ車なら四万円ほどで琴平とか。ホテルに着けばA君の兄上氏上海から関西空港に着き岡山経由ですでに投宿済み。健康ランドの如き温泉に浴しビュッフェ形式の夕食。讃岐うどんなどもあるが日本食には詳しくうどんを一玉二玉と算えるほどの今回の同行者らには一口で製麺工場製のうどんは頂けず。地ビールなど飲むが食堂出て「金陵」をば飲むを忘れたと黒服君にルームサービスは無いだろうからここで精算してしまふのでコップ酒一杯部屋に持ち帰ってよいか?と尋ねれば「ルームサービスは……」と要領得ず先輩に「お客様がルームサービスで」と尋ね余は「いや、部屋で飲むのに」と二言で先輩要領得る。部屋で金陵飲みテレビぼんやりと見る。金子光晴の『どくろ杯』少し読む。関東大震災について光晴は「あの時が峠で、日本の運勢が、旺から墓に移りはじめたらしく、眼にはみえないが人のこころに、しめっぽい零落の風がそっとしのび入り、地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本が、空気の味までまったくちがったものになってしまったことを、誰もが感じ、暗黙にうなずきあうよう」で「乗っている大地が信じられなくなったために、その不信がその他諸事万端にまで及んだ、というよりも、地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重って大きな虚落になっていることに気づかされ」「この瞬間以来、明治政府が折角気づきあげて、万代ゆるぎないつもりの国家権力のもとで、心をあずけて江戸以来の習性になったあなたまかせで安堵していた国民が、必ずしもゆるぎのない地盤のうえにいるのではなかったことを、おぼろげながらも気が付きはじめたように見えた」と述べる。荷風ともまた違った書き味ながら震災での危機感同じくするもの。その震災の上に昭和のあの時代を経て先の大戦で国家は負け、その虚構の上に成し遂げし経済成長のその成りの果てが今の世か。