富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十月六日(水)晴。毎週水曜信報に畏友の歴史家・高添強君(「高添」といふ日本名に非ず高・添強なり)の歴史談あり。毎週含蓄ある内容だが今日は「調景嶺故事」といふ題で今は地下鉄の走る新興住宅地だが九十年代中期までは九龍東部の陸の孤島にて国民党残党の集落、この地は英語でRennie's Mill(レニー製粉所)と呼ばれた縁起について。1898年に英国が新界租借し英領香港の面積は十倍となり七年後に九広鉄道も完成。この頃にRennieといふ名のカナダ人の商人あり中国の「洋化」で麺包を食す需要高まると期待し香港の地に大規模な製粉工場の建立を画策。英国の香港政庁もこの製粉所の生産量が当時の在港の駐軍兵含む全人口を四ヶ月養える規模であり戦争等で海峡封鎖での断糧の非常時でも有用と在港の財閥資本も投資に加わり香港政庁は九龍の東端のその地四百三十五エーカーを提供す。製粉所の建設が進み一九〇八年の年鑑にはこの製粉所が一日に八千袋の高品質な小麦粉を生産し一ヶ月の小麦使用量が六千屯に及んだと記載あり。電化された工場には工員宿舎だの港湾施設まで完備し小麦粉の日本やビルマまでの輸出まで企図。だが期待された中国での洋化とパン食が進まず経営者のRennie氏一九〇八年に製粉所傍の海に投身自殺。事業失敗し荒れ果てたこの製粉所が歴史の舞台に再び登場するは戦後のことで中共内戦で中国を追われ香港に移住した国民党の軍人軍卒らのためにこの荒れ地をば臨時居住区として提供。毎年十月十日の双十節には中華民国の青天白日旗が掲げられ反共基地の象徴の如し。九七年返還でこの反共集落の存在が問題となり政府は大型の住宅地建設の計画たて陸の孤島が今では高層住宅の並ぶベッドタウンと化し地下鉄が走る。で語るに値するはこの地の地名の由来にて「調景嶺」なる中文名は「吊頸嶺」の当て字で「頸吊り」は文字通りRennie氏の絞首に由来する、と。自殺が海への投身か首吊りかは史実不明。だが高添強氏の地道な調査によれば一九〇四年の英文地図にすでにこの地にTiu Keng Wan(吊頸湾或いは吊頸環か)といふ地名ありこの地名がRennie氏の自殺の前に、この地がRennie's Millと呼ばれた製粉所とは関係なく地場でTiu Keng Wanと呼ばれていた史実あり調景嶺=吊頸嶺の名がRennie氏の自殺とは関係なきこと明かす。晩にハッピーバレーの競馬場にて競馬開催ありI君とキャセイパシフィック航空のボックス席で観戦。見事にかすりもせず賭け金も抑え観戦に徹す。

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