富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月廿六日(日)朝七時前には起きてしまひ雑事片づけ九時過ぎに読み残しの新聞雑誌携えバス乗り継ぎ南區の林間道を歩き海岸。中秋近ければ風も心地よく太陽もけしてじりじりと肌灼くほどでもなく木陰にて木漏れ陽のなか司馬遼太郎全講演1(1964〜74年)朝日文庫読む。司馬遼太郎に向けられる安心感が何処から起きたのか、がわかる司馬先生の白髪でもまだ四十代後半の頃の講演。思想嫌いで思想以前にもっと大切な民族性のようなものがあるのでは?と司馬先生は日本の歴史から何かそれを探りだそうとしている時期なのだが、問題は右でも左でもなく、で世界の民族と比較した結果「日本人は、国際的には異質な人間集団としてしか存在しない」だの「世界の中の国々は原理によって生きているんだが、自分たち日本人は不思議な伝統で生きている」といった日本人論(72年の富山での富山県教委主催の学制百年記念での講演)に司馬先生は到る。諸悪の根元はこの右でも左でも受けいられてしまふような司馬遼太郎といふ歴史物書き(この人は自分自身が学者でも専門家でもない、ただの好奇心の者といっているが言い得ているであろう)がこうっいった発言をすることで聴衆(=日本人)が自分たちを「個性的」だの「他の民族とは違う伝統や倫理観がある」などと意味もなき肯定をして自信をもち、その誤解が他者への不理解へと繋がる危険性。だいたいフランスの本屋でも北京の書城でも、日本の日本人論ほど自らの民族をいちいち語る書物にあふれる土地はなし。こうして考えると司馬遼太郎という人の、本人にはそんな意図ないにせよ、読者が司馬先生から得る「害悪」少なからず。余の乏しい「司馬観」では、確か司馬はこのあと日本ぢたいの右傾化や日本人論の全盛の時代に向かうに従い、この昭和四十年代の左翼学生運動盛んな時代に「思想以前の民族性」のような主張から少し離れ、あまり比較文化的な日本人特性論を宣わなくなった気がするが、どうだっただろうか。日本で司馬遼太郎の存在が死後もここまで人気と思うと、野球でいう長嶋的な、司馬遼太郎なら右でも左でも受け入れ可の如き印象をば安易に用いること、とくに死後の朝日新聞社の司馬キャンペーンなど見るにつけ、司馬遼太郎にConstitution=「このくにのかたち」を頼ってしまっていいものなのか、と思わされる。午後三時すぎに灣仔に向かいアウトドア屋にてトレイル用の杖を一竿購ふ。昨日の山歩きの際に大帽山への登りの最中不図気付けば片方の杖の先端の護謨がなく帰宅してよく見たら護謨外れただけでなく杖ぢたいの先端の金具まで岩にでも挟んだのか遺失しておりアウドドア屋でもそのパーツのみの販売などしておらず結局杖一竿購入するハメとなる。ジムに一浴し帰宅。晩に十三夜のお月見と洒落込みZ嬢の仕切りでShau Kei Wanにて十二名集まりバスで石澳の岬の付け根。拘置場から香港トレイルのコース逆行し2kmで石澳の「龍背」に登り十三夜の月を愛でる。
みなみ風 蒸して龍背の 十三夜 富柏村
ビール一缶飲む。土地湾のバス停まで下りバスでShau Kei Wanに戻り午後九時すぎならと油断して予約もせずに越華會海鮮小館に参れば街頭に卓並べての繁盛ぶり。上手い具合に大卓一つ空いており晩餐。「油葱走地鶏」がひじょうに美味(写真)。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/