富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十七日(火)快晴。猛暑。午後より一面Hazeに蓋われる。早晩にジム。晩に犬丸治『市川新之助論』読む。著者は一言でいへば「非常に慶應的」。戸板康二渡辺保に続く第三世代はかくも観念的かと。著者は印象に残る新之助の舞台で僅かに意識向けたは92年、新之助弱冠十四歳の八月歌舞伎座成田山分身不動」での空海役(この演目、初代團十郎元禄十六年初演より埋もれしを十二代目が復活の自主公演)。続いて著者は翌93年5月歌舞伎座の「車引」にて未来の大器を予感と。この車引、辰之助(現・松緑)の梅王丸、丑之助(現・菊之助)の桜丸と並び松王丸の役。新之助の舞台は余もこれが初めて。その「才気の鉱脈が手つかずのまま眠っているようなもどかしさ」もっていた新之助「一転瞠目するような舞台見せた」のが98年3月の国立劇場の弁天小僧役。著者はここから新之助論といふより読者に丁寧に弁天小僧、勧進帳助六の話の筋の解説が目立つが、興味深きは新之助といふと何かと十一代目の生き写しと言われるし本人も祖父意識するが本人は、95年9月歌舞伎座での十一代目没後三十年祭で、このとき本人は九代目が初演の鏡獅子をば踊るのだが、この三十年祭の披露宴で九代目の実写映像見たのが間近に祖父が動く画像観たのは初めて。新之助本人も「その時初めて祖父っちゃんに出会ったんです。そこから急激に一人の男に惚れた一瞬がそこにあって、血が繋がっているということとは別に、完全に惚れたんですね。」「それまでは何となく歌舞伎役者の世襲制という中で市川家の子供として自然に舞台に出ていた。それだけでした。人間として、一個人の役者として舞台に出るという認識を持つきっかけを与えてくれたのは、やっぱり十一代目團十郎であったと思います」と語る。その「新之助が完成」するのが評判に高き99年1月浅草公会堂での弁慶の初役。これで所謂ブレイクし翌年正月に演舞場での京屋が演じる揚巻の名演が話題となった助六に至る。助六に「早うござんせ」と去るを督し「裲襠うちかけをサッと流すようにして下手向きにグッと身体を反らせて見込む」京屋。これを新之助は「助六と揚巻って話の上ではもっともっと会っていいわけ」なのに「ほとんど会わない。最後だけ。だから僕が愛した瞬間は最後引っ込む時に目を合わせる」それだったと語る。それを「千秋楽で雀右衛門さんに『あんたの最後のあれで私は嬉しかった』って言われて、爺っちゃんでもなく、親父でもなく、新之助君を、孝俊君を嬉しかったと言われたことが嬉しかった」と心境を吐露。ちなみに京屋は妻(故人)が十一代目の実妹新之助にとっては大叔父。京屋ともなれば義父七代目幸四郎新之助の曾祖父)を観た世代で、舞台では義兄の十一代目、甥の十二代目(現・團十郎)と共演し、その京屋が孫世代にあたる新之助助六に惚れ込む。歌舞伎らしさ。このあとの瀬戸内寂聴源氏物語での光源氏NHKの武蔵へはここで今更語るを要すまひ。
香港島の十九世紀の警察署編成について七月三十日の日剰に綴ったものの訂正及び加筆。不明であった6号差館につきI嬢より示唆あり。
1号差館 銅鑼灣Leighton道 現:PCCW東区機構ビル
2号差館 既存。現:灣仔警署
3号差館 既存。旧灣仔郵便局 郵便局移転後建物解体免れ環境署の環保軒。
4号差館 金鐘兵房海軍波戸場付近。
5号差館 中環Wellington街と皇后大道中の角。現在唯一現存の地下公衆便所あり。
6号差館 山頂の鑪峰峡。現在警察博物館にある山頂警察署が出来て6号廃止。
7号差館 既存。現:西区警署(中国政府中聯弁前)
8号差館 既存。西環高街。現在:香港警察刑事総部
9号差館 中環Caine道。

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