富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月廿日(日)天気予報は雨の印もあり雲行きも怪しく朝寝貪るが窓から眺むれば寶馬山の緑も陽光に映えバスにて大譚のダムを眺めスタンレイ経由しリパルスベイの海岸に参り南岸多少走ればトライアスロンの大会あり猛者ばかりか女子の部に小児の部まであり。海岸にて本日今季最終の競馬予想。毎年閉幕日は沙田競馬場に参るが今年はパドックの有蓋工事のため難儀し沙田には結局、国際レースとダービーなど算えるほどしか訪れず。携帯にて馬券求め海岸にて時々厚き雲が走り去ればじりじりと肌を刺す太陽に炎天下ジュネの『泥棒日記』読む。N兄と海岸で邂逅しカルスバアグ麦酒二罐飲み歓談。午後遅くバスにて中環。日曜の午後閑散とせしFCCのバーで競馬中継見る。ドライマティーニ二杯。本日のメインレース香港馬主協会錦標は季末にサイズ調教師のリベラルチョイスに期待するが香港マカオカップにて二位のパーフェクトパートナーの調教も仕上りよき状態を見抜けず今季の余の成績象徴するかの如き結果。自宅近くのジムの蒸風呂に寄り帰宅して枝豆にカルスバアグ麦酒。明後日が端午節にて先日購った「嘉湖」の粽を食す。美味。真露焼酎飲む。父の日とかで隣家の喧しきこと甚だし。ビデオにて「グッドラック」なるドラマの初回見る。木村拓哉君の顔に表情といふものなし。余の最近の「おきに」はブランデーの豆乳割り。雑誌『サライ』の銀座特集号読む。『サライ』など爺ムサくていけないし銀座特集など「今更」ながら東都から遠く離れて暮す郷愁もあり。ふと曾祖母の本葬だったか法事だったか祖母が一人これを仕切り新宿の常圓寺での法事のあとにわざわざハイヤー仕立て銀座八丁目の天ぷら・天国にてお清めの筵席設けたを思い出す。新宿でじゅうぶんに一席設けるも能ふをわざわざ車やとって新宿と子供ながらに祖母の見栄に恐縮したが天国の三階だかの座敷の欄干より銀座の裏通り眺むれば午後の遅くに新橋の芸者衆迎えに往く人力車が走りすぎ「ああ、なんか戦争前の昔のようだねぇ」とつぶやく祖母の声耳に残る。清月館の和菓子、くのやの和装小物、よし田の蕎麦と祖母を思い出し、ウエストでのお茶、資生堂パーラーザ・ギンザで母に連れられた頃を懐かしむ。三更に雨。本降り。雷鳴。『泥棒日記』読了。少年院出の若衆が男娼気取り男色家の客招き恐喝して……と今なら北京だの上海、越南の旧サイゴンにこの手の若者少なからずといふ話。ジュネが挙げる舞台や物語の小道具、見世物小屋、監獄、花々、不埒な獲物、停車場、国境、麻薬、船員、港、小便所、葬式、曖昧宿の部屋……なんと意味深な響きあり。それをただ美しいから愛すると言切るジュネ。中学生の頃にこれを読み当時いったい何を感じたのかも今では記憶の遠き彼方にて思い出せもせず。
▼久が原の朗然亭T君より。博多での中村魁春襲名博多座観劇に遊んだT君、博多は來月朔よりの祇園山笠近し、筥崎宮に參詣。以下T君の綴るを写す。からぬ神域みな海砂にて敷き詰められ、既に朝清め濟みたるとおぼしく、林間樹陰の白砂に箒目の至らぬ所とてなく、社人の心入れのほど忍ばれて候。御潮井と稱する神砂あり。社務所の小籠を求めてこれを盛り、玄關門口に置きて外出の折に身に振り掛け邪氣を拂ふが博多近在の古風と申し候。御潮井の砂には清き貝殼の缺片煌き混じり、龜山院宸筆「敵國降伏」の勅額(現在は模品)打たれたる樓門より續く髮の如き參道の果ては玄海の海、神功皇后三韓攻め所縁のこゝは海の宮居なりと、つくづく實感いたし候。尤も今や海岸は護岸工事にて潮の差し引きにも餘韻なく、とうてい淺蜊蛤の住み得る環境にてはなし、美しき松原など何處を見てもあるべからず候。海洋國家日本とはいへ内外に誇るべき美しき海濱を破壞し顧みぬ惡風、今に始めぬことなれども、二度まで神風を吹かせ給ひ國を護らせ給ひけむ筥崎の宮居の濱までもかくの如し。げに情けなき亡國の景に獨り嘆じ居り候……と。
▼国歌斉唱の強制について。強制と聞いて反発して坐ると決意した生徒、教師が処分されると聞いて立った生徒、生徒に自分は立つと説明した教師、事情があり卒業式当日に他の学校から転校してきて卒業式に参加し「名前を呼ばれたら立つ」様指導する時間しかなく国歌斉唱では「一同起立」で自分の名前は呼ばれなかったからとの判断で坐ったままだった生徒、「一同、ご起立願います」の一同に卒業する側の自分たちは含まれないと単純に理解した学校……こんなことだから全員きちんと起立して国歌斉唱することが当然といふきちんと徹底が必要、といふのが東京ファシス都あたりの感覚だろうが、広島では全小中高の校長に不起立の人数を報告させ、新潟では高校で「全員起立」から「ほとんど不起立」まで5段階で評価させ、福岡、大阪も不起立の有無を尋ねる。沖縄では斉唱時の児童生徒の様子を「ほとんど歌えた」「半数」「一部」の3段階で回答させ、さすが植民地教育、現地人がどれだけ日本に帰属できているかの戦前の台湾での調査の如し。福岡県の久留米では市民団体?や式に参加市議より国歌斉唱が「声が小さくて聞えない」と意見があり、校長に、式に参加の市教委職員の意見まで参考にしての斉唱時の声量の大中小まで調査し「小さい」の学校には注意伝達。(以上、昨日の朝日)国歌斉唱ができるかどうかが教育か。この程度のことに労力を要し、而もそこから様々な分断化が進み、寧ろ教育現場の崩壊に至るこの愚劣なる作業。全員が声を堂々と国歌斉唱すればよいのか。それが何なのか。それで何がどう良くなるのか、何ら答えもなし。だがこの国歌斉唱も自衛隊多国籍軍への参加だの有事立法だの個人情報保護法だの教育基本法憲法の改正だのと同じで全く思考力停止せし愚かな国民が何も申さずに、成す者に成し放題を許すが故。「小泉さんに任せておけば、石原さんなら」といふ、民度の低さ。近い将来、竹箆返しが自らに来ることも自業自得か。

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