富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月廿七日(木)晴。文藝春秋六月号読む。小田島雄志氏の手記に『銀座百店』誌創刊半世紀とあり。幼き頃に老人趣味だがこの名店街の地図で行ったことある店に印つた記憶。何よりの贔屓はおもちゃキンタロウ、ちょっと大きくなりヤマハ天賞堂。この販促雑誌では連載のうち荻昌弘「今月の映画」、向田邦子の後の『父の詫び状』となる小説に山川静夫の歌舞伎随筆『歌右衛門疎開』として文春藝秋より上梓されたものなどに強い記憶あり。同じ文藝春秋市川新之助君(海老蔵)の対談二つあり。ひとつは相手が安藤忠雄でもう一つが山本耀司。ヨージヤマモトと香港の劉健威氏が似ていると発見。いい顔だち。それにしても海老蔵の「梨園に育って子供の頃から一流のものを観ているから凄いものを素直に凄いと思えない」「でも歌舞伎はそういう贅沢な位置にあると思う」「だから贅沢な悩みを抱えて乗り越えるしかない」「世襲の意味はそこにある」とはさすが成田屋。そんじょそこらの者にはけして言える台詞でなし。廿幾年でここまで言えるのが成田屋の格。柏書房の『旧字旧かな入門』なる書籍入手。非常に気になるのは共著者による「はしがき」にて電脳関係への言及で外来語使うのはわかるが、例えばキーボード、プログラムなど、和語用いようと思えば鍵盤、程式とも表現できるが、それは置いても、「本書では、明朝體活字の舊字體を常用漢字と對照表にして示し、歴史的假名遣・字音假名遣の一般的原則をポータブルに纒めると共に、現在ではなかなか見られなくなつた用字法や用語の一覽を掲げて舊字舊假名の文章を綴るための手引となるやう編輯致しました」とあり、この一文でなぜ「ポータブル」の一語のみ外来語用いるか、而もポータブルの意味は「携帯用」であり、この本が携帯用辞書のように小型簡易に携帯用に編輯されたものならまだしも、この本はA5版で二五〇頁厚さ1.5cmと携帯用かどうか難しいところ、「仮名遣いの原則を携帯用にまとめた」というより寧ろ「簡易に」とか「わかりやすく」の筈。現代の日本語の乱れ歎く書の専門家による「はしがき」がこれではねぇ。余が思ふに漢字については新漢字でいいとしても例えば「澤」を「沢」、「驛」を「駅」とした俗字、これはもともと「釋」の音が「しゃく」であるゆへ「尺」用いて「釈」にしたわけで(ここまではまだ理解できるが)だからといって同じ旁りの「澤」や「驛」まで旁りを「尺」にしてしまふのは「タク」の原音が漢字から読めず。最悪は「驛」で、「驛」は「えき」が訓読みと誤解されるがこれは「易」と同じく音読みの「エキ」で(古来「駱駅ラクエキ」などと用いる)、「シャク」や混同された「タク」とも一切関係なし。ちなみに、これは余の想像だが「驛」に限らず「液」の「エキ」や「役」の「ヤク」も音読みが訓読みの「えき」「やく」と思われがちで、現代シナ語でいう「yi」の発音にあたるこれらの漢字がそれに該当している。ゆへに明らかな漢字の語源語意すら誤まるほどの字は敢えて旧漢字を用いるべきはず。舊かなについては餘もしばしば用ひるがこれは使ひ手の趣味の範圍でよろしいかと。大江君『万延元年……』引き続き読むが余り進まず。初期の『セブンティーン』だの『政治少年死す』『性的人間』は十代の頃に読み感銘すら受け『万延……』を漸く読んだわけだが。
▼久が原のT君より御日記御言及中、荷風散人の謂ふ團藏とは入水八代目の父・七代目三河屋、所謂「澁團」なり。九代目團洲に楯突いて諸國流浪の經歴もある偏屈者、明治三十六年成田屋沒後は皮肉なる古怪味珍重せられ、仁木彈正など團十郎以上と評する人もあり。團十郎を張りし初代吉右衞門、一面この澁團にも傾倒し、布引三段目など敢へて三河屋の型を學びたる役もあり。これら殆んど今の世に正確には傳はらず。八代目の入水は、遠因を辿らば七代目に及ばざりし自身の力量を知るがためなりとも云々。從つて、澁團は現團藏の曾祖父に當たれり。と。なるほどねぇ。ちなみにT君によればこの七代目團蔵の逝去は帝劇開場のわずか半年後だそうで荷風先生の観た菊畑まさに最晩年の舞台なり。
カンヌ映画祭での「誰も知らない」の主演の柳楽優弥君の男優賞受賞につき松山の畏友S君曰く「海外(欧米)での評価を絶対に価値あるものとする現代日本流の思考の空虚に恐れ戦くのみ」。御意。S君指摘するにこのカンヌブームで才能ある子役(例えば神木隆之介)などこのブームでそういった実力ある俳優の凋落もあろうかと。ところでS君もバッハの無伴奏チェロ組曲好み好きな奏者はと問えばアンナー・ビルスマ。納得。ビルスマの音楽観について興味あるサイトあり(こちら)
18世紀には、人々の寿命は今日ほど長いものではありませんでした。30代、40代で死ぬ人も多かったのです。このことは、音楽の精神性にも大きな影響を与えていたと思います。誰かが二階の寝室で死にかけている……もしかしたら、それは親友の奥さんだったかも知れないし、家族のうちの1人だったかも知れない。そんな状態で仕事をする、ということも、バッハやモーツァルトベートーヴェンの時代には珍しくありませんでした。死はいつも身近にあったのです。ですから、教会の司祭たちの責任は重大でした。彼の前に集まってくるのは、十字架を背負った何百人もの人々、そして、彼自身も大きな十字架を背負っていたのです。音楽を作曲する、あるいは演奏するという行為もまた、精神の深いところに根ざしていました。そうした深みは、今の人々にとっては、あまり一般的なものではなくなってしまいました。この時代には、工場とか、騒々しく街を駆け抜ける馬車とかを除くと、人々の周りは今よりもずっと静かでした。そうした静寂の中で、音楽は人々を夢中にさせました。人は、何かに没頭しているときは、日々の悲しみを忘れることが出来ました。それが音楽の役割の1つでもあったのです。バッハの音楽は周りのこと一切を忘れさせてしまうような音楽です。碁やチェスに興じている人を見たことがあるでしょう? そうしたゲームに夢中になっている人は、すぐそばに大砲の弾でも射ち込まない限り、周囲の出来事に気がつきません……。
何度読み返しても含蓄のある、これ以上の音楽を語る言葉はなし。音楽、とくにバッハなどこれほどのものとあらためて納得。ところでふと思うは、この死との共存なるものがパレスチナだのイラクといった戦地でないかぎり死と隣り合わせになき我々の生活において、伝染病すらSARSの如き局地発生こそあれかつてのペストの如き感染なき時代に、やはりこの時代に死との向かい合いはHIVであろう、と思ふ。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/