富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月十一日(火)快晴。松山のS君より鉄斎ならびに南画についてメールいただく。「文人画・南画・南宗画を「素人画」と見なすのは建前としては正しい」が歴史的な事実としては文人が士大夫(科挙ニ合格シ官僚トナツタ学者)であり文人画を士大夫画と呼ぶように絵は素人風でもその書き手の資質としては科挙に受かるほどの学があること、それゆへ久が原のT君の言う「南宗畫は學人の手による偉大なる素人畫にして、漢學滅びて南宗畫殘るべくもなし」となる。そういう意味で士大夫になるほどの文人の「素人」画に対して科挙に合格するわけもなき南宗画の画家がいるわけで鉄斎もその一人とS君の指摘。鉄斎自身が「わしは儒者であって画師ではない」と宣ひつつ画業が自分の生業であるとの自覚も確かにあり「画師」と刻んだ印を用いることさえあった程、とS君。ゆえに一括りに「文人画・南画・南宗画を「素人画」と見なす」こと能わず、となる。鉄斎の目利きであるS君曰く、人は鉄斎の絵を「素人絵」と見なすことで納得しがちだがよく見れば鉄斎の絵は下手ではなく殊に贋作と比較するとき意外なまでの鉄斎の上手さを思い知るを得る、と。鉄斎の表現は思いのほか細部まで確りしており意味ある絵を描くからこそ細部まで決して疎かにはしないという姿勢を貫いていており、難しいのはS君の言う「鉄斎にとって略して描いても許されるのか許されないのかの別は「鉄斎なりの学」に基づいて判別され」「鉄斎の学を把握し切れない我々には鉄斎のこだわりのポイントがなかなか見えてこない」と。御意。ところで「南宗画」という語は何と読まれるべきか?、とS君。今日の美術事典の類で「なんしゅうが」と読ませるのは禅宗の南宗なんしゅう(達磨の五世法孫・弘忍の弟子・慧能を祖とする)からの連想ゆへ「なんしゅうが」となるが明治大正期の雑誌等では「なんそうが」という仮名が振られ、その流れからか今日でも年配の古美術商・書画愛好家など「なんそうが」と読む、と。余の浅き知識を恥ずかしながら披露せば「なんそうが」に分があり。そもそも「宗」の字は「綜」や「総」と同じくシナの音は「zong」で「綜」や「総」が「そう」と読むように「宗」も漢音では「そう」であり、それが慣習で「しゅう」の読み方になったもの。古きを重んじる上では「なんそう」のほうが佳かろう。だが更に細かくみると「宗」の字はもともと同じ祖先(祖宗そそう)から出た一族を謂ひ、それゆへ宗族、宗家、宗主など「そうぞく」「そうけ」「そうしゅ」と皆「そう」と読むわけで、国家すら宗主国などと用いるのに日本語では「宗教」についての言葉のみ「しゅうきょう」「宗門しゅうもん」「宗派しゅうは」と「しゅう」と呼んでおり、いつからかは知らぬが「宗教」といふ概念が日本語に存在してから「宗」の字から宗教関係だけ「しゅう」といふ慣習読みが起きたことは特筆に値ひしよう。ところで「南宗画」を敢えて「なんしゅう」と読むのも中国でも絵画興隆の時代「南宋」なんそう画と区別する意味では(南宗画と南宋画が混同される場合少なからず)わかりやすいかも……などと考えつつ早晩にジム。一時間鍛錬。帰宅してハヤシライス食す。上原浩『極上の純米酒ガイドカラ−版』光文社新書パラパラとめくる。香港で見ても何ら役立たず次回の訪日の折にでも使えるか、と。ちなみに香港ではこの本で紹介される酒のうち入手できるのは浦霞とHappy Valleyの日本料理・慕情などが置いている福光屋の黒帯、加賀鳶など。雑誌『世界』六月号少し読む。イラク関係の特集記事は現状理解に読むに値するものあり。テッサ森巣鈴木女史の連載での「戦争の民営化」読み背筋寒くなる思い。時代は、仏蘭西軍のモロッコ戦での外人部隊であるとか、ボーイング三菱重工小松製作所軍事産業でもあるといふようなレベルの問題ではなく、戦争が民間企業に委託される!ことが現実に起きている詳細なレポート。当然、その会社と米国首脳との癒着などもあり(といふより厳密にはそういった企業背景にした者が商利のために政界入りしている事実)、企業であるから売り上げをあげるには戦争や治安不安、動乱などが必要となること。