富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月八日(土)朝、雨音に覚醒め七時頃視界遮る豪雨。拙宅より眺む山の渓流滝の如く渓流集る引水路怒濤の如く爆ける。雷鳴轟く。赤雲警報発令されすぐに黒雲警報に変る。赤雲迄は学校臨時休業だが黒雲となると證券取引から企業も従業員自宅待機だが朝食済ますうちに赤雲に変り雨は小康。昼にジムにて鍛錬。九龍にて薮用済ませ早晩にジムに戻り鍛錬。晩に香港映画祭の第二部で清水宏監督の回顧上映ありSpace Museum視聴覚ホールにて水谷八重子主演『歌女おぼえ書』1941年見る。傑作。懐銭も怪しき旅芸人の三人組が山間の旅館にてふとしたことで遠州の茶問屋・山平の主人(藤野宏の好演)と知合い女優くずれのお歌(水谷八重子)を山平の主人が見受けし家に置く。主人はすぐに亡くなり東京の大学に通ふ長男(上原謙)はお歌に惚れて結婚を約ふが学業の修了目指し茶問屋は休業。芸人風情と白眼視されるがお歌懸命にこの家を守る最中かつて取引あった米国の貿易会社(41年の映画で!)より緑茶の注文受け経営者おらぬどころか休業し茶葉もなき茶問屋の再興にお歌尽力し見事問屋家業再興。上原謙戻る日かつての旅芸人一座の旦那現れカネの普請。お歌はあっさりと「アタシを連れていっておくれ」と堅気の暮しはやっぱり肌に合わぬ、旅の芝居一座が懐かしい、と。旅芸人になったお歌のもとに上原謙現れ「何しに来たんだい」といふお歌に「俺の女房を迎えに来た」と啖呵。「堅気の暮しの嫌いな女にあの堅気の暮しができるか。みんなお歌が山平を再興と賞めている」と言われ、道成寺の舞台間近でお歌化粧台に向ふが目から涙。やがてお歌は目出度く茶問屋に戻り内儀になったといふ筋。水谷八重子絶品。「八重子はいいねぇ」と八重子の芝居の帰りの祖母よく感嘆していたが幼き余に八重子の良さなどわからず。歌舞伎の女形の艶やかさわかっても八重子の新派の芝居のどこが八重子が大女優なのかわからずにいたが、今でもこうして若い頃の八重子見てもけして別嬪に非ず、だが女性にとって八重子演じる女は理想型。実に佳し。その上でこの作品にては山間の商人宿の座敷で芸者のように座敷で舞う八重子の踊りまで拝む。まるで新派の芝居そのもの。筋書もいいが清水宏あらためて敬服。同い年の小津安二郎とよく対比されるが、この41年に小津の作品が『戸田家の人々』(戸田家の主人も藤野秀夫であった)であり、映画としての演出、技術面では確かに清水宏、秀でる。八重子が木戸を閉めて茶屋問屋の家屋の中に入っても建付け悪しき障子戸のほんの隙間から八重子がいったん土間を小走りに歩いてふと引返し土間から板の間に上がる動顛ぶりのほんの隙間から見せる演出だの、問屋のなかの石牀をカメラが走り脱ぎ捨てられた子供の草履大写しにして子の慌てて帰ったところを見せ、繁盛する茶問屋の店内だの旅芝居の楽屋だのをキャメラが廊下をさーっと走り遠近さまざまに動く人々を見せることでその場の空気を映画館全体に吹込むほど。戦後でいえばヒッチコックに見られるキャメラ。八重子の道成寺の芝居控えた楽屋での鏡見て化粧しながらの涙で映画完ればほぼ満席の客席より拍手わき上がる。三四十分時間あり尖沙咀のCitysuperにある鹿児島・阿九根ラーメンに食す。いつも混んでおり午後九時過ぎのこの時間なら、と期待。カウンターに坐ればラーメン出来たのにカウンターの上の高台に置かれただけで余は自分の注文した品とは教えられもせず暫し放置されたままで余が気づき店員に確認してゲットするほど店員も粗忽。Space Museumに戻り二更に清水宏監督で田中絹代主演の『簪』見る。山間の温泉にて大学教授(斉藤達雄)、商家の新婚の若旦那、退役兵・納村(笠智衆)、ご隠居と孫らが41年といふ戦争まっしぐらの時代に優雅にもこの温泉旅館に逗留し避暑。そこで旅の女・田中絹代が風呂の湯の中に落していた簪が原因で笠智衆が足に簪を刺して怪我。田中絹代はすでに旅館を発っていたが東京より謝罪にと舞戻り何か訳ありで逗留続ける。納村と田中絹代をどうにか縁組させようとする周囲の者の関心と、笠智衆の痍癒えてゆくことくらいしか話題なし。団体客があるとこの長丁場の逗留客に不便多く彼らは「隣組」の寄合いのようなこと迄始めるが議案が旅館の食事献立改善だの大学先生とご隠居の鼾への苦情だの、とこれは皙かに戦時中の社会風刺。結局、夏も終りに近づき大学先生、若旦那夫婦と山を下り、最後、納村もご隠居と孫らも去って田中絹代だけが戻る。納村から東京に戻ったらまたみんなで会いましょう、といふ葉書が逗留中の絹代に届くが、結局、笠智衆演じるこの男は絹代を連れて帰るでもなし。敢てその同宿の者らの下山を映さず子供らの日記でだけさらりと流し孤独な絹代の姿だけにしたのも演出。ここまで平凡なところで面白可笑しく最後は寂しさといふ清水宏ならではの作品か。それにしても最も大きな矛盾は、簪を足に刺した痍が癒えぬのに笠智衆はこの子供らに唆され旅館の近くで歩行訓練の毎日。関節だの筋肉障害であるとか複雑骨折のあとのリハビリならわかるが簪で足を刺した痍の癒えぬのになぜ歩行訓練なのか、びっこひく納村をわざわざ歩かせて「あと少し、あと少し」と痍に悪いだけ。刺傷なのだから治れば歩けるのに(笑)。笠智衆のびっこひく演技の下手さも特筆もの(ところで若い笠智衆がいつものことだがさりげない訳でスクリーンに現れると香港でも客席からわーっと声あがるほど)。この非常に不思議な物語、もしかすると「みんな頭がおかしいのでは?」という、世間から隔絶された山間の温泉での話であるからもう少しブラックジョークだのかませると筒井康隆的世界。犯罪が起きれば最高のミステリーになるのだが。ところで映画のなかにこの山間の温泉でも朝、ラジオ体操あり。河原で逗留客がラジオ体操。当然この体操、国民の健康増進といふ昭和初期の国策的国民体力増強の政策であり、独逸にも見られた民族の遺伝学的な健康体の完成。それが戦後も続くのだが、余は小学生の折、朝、夏休みだといふのに小学校の校庭に集められ(自由参加だが半ば強制)、家が学校の近所であったためラジオ体操も学校の校庭だったのだが、不思議なのは校庭にそれぞれの町内会毎の班あり別々に体操実施。町内会長だの仕切役の人に、どこかの製菓会社だかがお節介にもスポンサーになり製作せしラジオ体操カードなるもの配られており、それに参加すると班押される。自由参加の筈が夏休み終ると担任の教師にラジオ体操参加について質され「結局、強制ぢゃないか」と余は暗澹たる思い。朝起きることとか運動の好き嫌いより、こうした集団行為の強制が不愉快。もっと不愉快なるはこの半ば強制された集団活動をば健康だの健やかさだの爽快感だのと感じ入り積極的に参加し他人にその参加まで促す人たちの存在なり。深夜零時帰宅。

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