富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月三十日(金)晴。早晩ジムにて鍛錬しつつ志ん朝師匠の「真景累ヶ淵」より「豊志賀の死」を聞く。圓朝作の怪談話聞きながらの運動も奇妙。前半多少説明が過ぎるのと新吉の富本の師匠・豊志賀とお久との会話がやたら「ですます」調の現代語であるのが気になる。志ん朝本人もマクラにて「あたしぢゃ怪談話もちっとも怖く聞えない」と言っているが確かに。晩に北角の寿司・加藤。加藤の向いに住むH氏と新界に住むK氏招き一酌といいたいが澤の泉をば三人で一升五合は飲過ぎか。I夫妻現れ先週土曜に送別会せしH君の送別まだ続く、と。送別されるH君とH君の親友O君現れる。加藤も閉り先に近くの城市花園酒店の地下の酒場に往ったH君らに合流し深更にまた一酌。
▼昨日綴った「君」といふ言い方。日本語でも戦前の旧制学校から戦後のビジネス社会においてはかなり使われたが今では寧ろ「君が」などと言おうものなら余所余所しいどころか「君が発注する、って言ったんじゃないか!」など相手批判。小津の映画で笠智衆が新橋の小料理屋で会う仲間たち、森繁の社長シリーズなどでは「君」は常套語ながら今でもこの「君」を使う者は少なく、敢て正当なる「君」用法の養護者が誰かと挙げればフグタマスオ氏只一人。マスオさんの品の佳さは定評あるが「アナゴ君〜、キミは」とマスオさん。
▼昨日の朝日の憲法特集に酒井隆史氏の「異質な人排除する改憲論」なる文章あり見入る。本来は普遍的な権利の体系であるはずの憲法が今の日本では「普通の人である私」が「異質な人」排除し「人に迷惑をかけない普通の人だけは仲間に入れてあげますよ」といふ体系になり果てる。実はこの「普通の人」ほど常軌逸しているのだが当然本人らはそれを解せず。個と個、個と国家の間に契約も本来の連帯や繋がりもなく単に漠然とした村の寄り合い的な(……などと安易に表現すると網野先生の研究に証された中世の村のもつ自治制などを理解していないことになるが)言い直せば「自治意識もなき」メダカ社会である日本、異質を無視するか集団にて嫉妬と不信で排除するか、連帯なきゆへの全体主義。狂気。憲法の普遍性も理解できず、日本の憲法ゆへ八百万の神だの稲作文化など日本の独自性を憲法に謳へ(笑)と白痴ぶり著しき自民党の先生方。今日の朝日には宮崎にて小泉首相宛にイラク撤兵の請願署名集めて送った高校卒業生が(小泉三世がこの誓願読んでいない上に学校がきちんと教育をしてくれないとと宣ひ唖然とさせられたが)誓願の際に「学校名を出さぬよう指導」したその学校に呼び出され「教育委員会に呼び出された。他の学校も迷惑している」と苦言呈された事実。本来なら生徒のこの自由闊達なる思弁に対してそれを育て護ってやるべきが学校。戦前の旧制学校ならできたこと。この生徒を誇りに思えず芽を刈り取る、これが教育の現状か。悲しきかぎり。

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