富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月三日(土)曇。上野は寛永寺の両大師詣御車返の櫻をば愛でた久が原のT君より報せあり。両大師は花見客の雑沓甚だしき上野公園とは通り一つ隔てただけで上野駅に出入りの鉄道の轢む音聞こえる程の静寂のはず。其処に御車返の櫻あり……と此処まではかつて東京に住まひし頃に遊び懐かしい限りだがT君の説明で知るは「後水尾院御感の餘り御車を返させ給ひける名誉のこの銘の櫻に二種あり」「一つは洛外常照皇寺の枝埀櫻」で「一つは突然變異にて一木に一重八重咲き混じる珍種」といふこと。両大師のは後者にて「別銘を桐ヶ谷」と言ひ三味線長歌「櫻盡くし」という曲に歌はるゝほどの古種だそうでもとは鎌倉産出と傳へられるが両大師の程の大木は「卻つて關東には稀なるが如し」とT君。「未だ蕾も殘れりとは雖も縁紅厚咲の花房重りかに今を盛りと見えたり。萬朶枝撓む隙より水淺黄の空透ける眺め、東都櫻中の絶景と言ひつべし」と目に浮かぶ櫻の咲く様。それに比べ上野山の「染井吉野は宛然灰土の如し」とT君。さて本日は余も偶には人の為なる事もするもので知人A氏三月の帰国にあたり子息H君あと一年香港に残り12年生の修学願い其の保証人及び査証手続き等の諸事請われ余それを引受ける。本日は明日より耶蘇の復活祭の学校休みにて一時帰国するH君の査証手続き終わり灣仔の入境事務大楼に査証受領にH君と参る。担当官との面談直ぐ終わるが土曜日で手薄の為に査証発給の事務手続き小一時間有すと言はれ今どきの十八の若者とさして共通話題もなく会話にも困りふと思い出すは先日(三月十六日)の香港IDの手続きにて漢字名「富柏村」をば香港IDに記載意図せしところその際のreplacementはあくまで旧来のカードよりICカードへの変更にて記載内容の変更には応じられず記載内容変更要望の場合は有料にて灣仔の入境事務処にてと言はれた事。H君の手続きする5階より香港身分証扱ふ8階に参れば混雑するものの予約なしでも等局「捌ける」程度の混雑にて恐る恐る中文名(漢字名)の申請せば何の疑いも支障もなく受理され一時間半ほどの間に申請、再度の写真撮影と指紋押捺及び本人確認了える。日本の感覚では偽名登記だろうがそもそも香港での最初の登記には日本国旅券に記載されしローマ字名しか根拠なく日本人の場合には和名あるが東夷の「国字」だの平仮名の場合漢語圏の香港にては登記も出来ず亦た少なからぬ非漢字圏人士が勝手に漢字名つける習慣もあり(例えば末代総督のChris Patten卿の彭定康など)本人が申請せば受理されることに不思議もなし。それにしても富柏村なる架空世界の名をば態々官憲に登記とは愚の骨頂といふ気もしつつ架空世界の名とて登記可なることでいかに名前なるもの恣意の産物にて個人情報管理なる行為ぢたいがいかに滑稽かの証左ながら何故に政府官憲が国民の個人情報管理に執るかといへば管理でもしておらねば繁殖して把握可能なるが情報にて野放しでは政府官憲の存在意義にすら觝触する故と理解。この手続きのためにHK$395も耗やす余には自分自身呆れるが本日最後の作業にてこの費用支払いの窓口にて生れて初めて「富柏村先生」と呼ばれ不思議な気分。長い待ち時間に新聞読んでおれば信報の藝術欄に「糸崎公朗」なる人のフォトモ(写真+模型)アート展示会が一日より灣仔の其処から歩いて五分とかからぬ藝術中心にて開催とありこの糸崎なる作家のフォトモによる精緻なる都会の情景に興味湧き香港ID手続き済ませ早速訪れる。最高。余の最も好きな都市の描写。物悲しさ。奇妙さ。それでいて何処か可笑しさと生命観。これぞ都市といふ糸崎ワールドに暫し見入る。会場に在港邦人のM君あり。此処でM君と遭遇とは出来すぎた話。邂ふべき人に邂逅の感あり。M君は昨日だか総領事館のM氏に勧められて参った、と。M君とこの糸崎なる人が香港の繁華街をば撮影しオブジェ製ればさぞかし面白いだろふと語るが問題は香港の場合建物の撮影する際に人を含まず建物原型のみの撮影はさぞや難しきことか(笑)。久々にアートは楽しいものと感じ入る展覧会。薮用あり九龍。早晩に終わり香港島に戻り晩に久々に北角の寿司・加藤にてT君夫妻とA君。烏賊の烏賊墨和え肴にエビス麦酒。酒は澤の泉と越の白梅のどちらも純米酒。さより、赤貝、小鰭など寿司つまみばってらと穴子押寿司で腹充たせば幸甚極まりなし。帰りに皆で北角道に翠苑なる新しき甜味屋出来味見。主人も一見して趣味人で好感もてるが芝麻糊食すが砂糖容易に使いすぎ工夫要す。
▼SCMP紙に印度領の孤島アダマン群島の記事あり。嘗ての外地とは隔絶された未開の島も今では空港出来て(リベタ)すっかり観光地。問題は外地人の進入によりこの群島に未だ存在せぬウイルス侵入し当然のことながらその抗体もたぬ現地の土民それに感染の場合死亡に至るも易しと。土民をば観光バスより眺めビデオだの写真に納め娯しむ旅行者の野蛮さ甚だし。また文化人類学の名をもってその土民をば執拗に「貴重」と扱ふもこれ亦た卑下されるべき行為なり。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/