富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十八日(木)朝日新聞で久々に吉田秀和氏の文章読む。連載が止まっていることは氏の「音楽展望」がいつも加藤周一夕陽妄語」の翌日だかに掲載されるのにそれがないことで吉田先生も高齢でさすがに……などと勝手に思っていたが連載復す。その文章読めば何の前置きもなく
身内に不幸があった。診断が下って三年八ヶ月。入院して半年と四日。その間も気の休まる間はほとんどなかったが、終末を迎えた時は精神と肉体の両面で強烈無残なボディー・ブローを喰らった状態。筆を執る興味は全く失った。このコラムも当面休みとした。昨今ようやく人心地を取り戻した気持ちになりかけたところで、軽い病気をした。すると、それまでは亡き人の許に早く行きたいと願っていたのに、急にこのまま屈するのが口惜しくなった。仕事ができていたころは何とよかったろう! いずれにせよ、私に与えられた時間は長くはない。いつまで続くか、保証の限りではない。だが、もう一度やってみよう。
……と。江藤淳先生以来の愛する家人失った人の赤裸々なる文章を読んだ思い。但しこの吉田先生の凄さは何といふ(いい意味での)この自己中心ぶり。亡き人のことなど一切書かず自らの疲憊疲弊をここまで述べる文章。これほどの文章があろうか。このエゴの吐露。自らの愛する人のことなど書くことはその人への愛惜にもならず。自らのこの生への欲望。これこそ亡き人への愛おしみであり、この復活宣言こそ亡き人が最も喜ぶもの。さすが吉田先生ともなると違ふ。そして吉田先生は何事もなかったかのように庄司沙矢香が奏でるプロコフィエフのヴァイオリンソナタ第一、第二番を評す。グラモフォンのこのCDを吉田先生は「日本のヴァイオリン演奏の限界の一角を突破した記念碑的意義をもつ」と吉田先生には珍しいこの絶賛。それが若いこの少女に授けられていることへの老ひに老ひた吉田先生の未来への希望。それにしても加藤周一吉田秀和といふ、築地の朝日でも社内でもはや誰も何も進言できぬ両巨頭に対して、加藤先生は米国のイラク征伐とキョービの世界の危うさにさらに健筆、吉田先生もこうして復活しての再生宣言。もはや誰もこのお二人を止めることはできず。ここまできたら百歳になっても、か。ところで。佐敦の地下鉄站を出て雑多なる恒豐中心(Prudential Hotel)の裏に出ると徳成街の路地に「好味」といふ何の変哲もなき小食店あり。売る物といへば焼売だのの串刺しに腸粉(蒸米粉)程度。その何の変哲もなき店が何故気になるかといへば夕方に何時通っても客が並ぶほどの繁盛(写真)。その客の殆どが腸粉を求める。それで余も前回試食してみると確かに「ただの」腸粉なのだが病みつきになりそうな予感あり。今日もまた腸粉求めさすがに狭い店先だの歩き食いは下品と裏手の Cox's Roadの公園のベンチに坐して食す。見ての通り(写真)単なる腸粉。だが美味い。甘辛の味噌と醤油を「かなり」大量にかけられるので余のように上品な者は店の女に「あまりかけないでね」と念押ししたが、それでもかなりの味噌タレの量。ご幼少の頃に近所の駄菓子屋で食した、皿も満足に洗わず割り箸とてバケツの水に晒しただけでの使い回しで食わされたところ天だのもんじゃ焼が美味かったといふ郷愁に近いもので、何が美味いのかわからぬがこの腸粉。ところで二十年ほど前に香港を当時HISの格安チケットとかで「中国個人ビザ取得つき香港〜広州で入る中国個人旅行」にて香港を訪れた貧乏旅行者の多くがパンナム001便で深夜香港に到着して当時まだ「怪しい新宿の旅行社」であったHISの当時のご指定のホテルが富士ホテルといふ佐敦にあったホテル。現在はないのだが「富士ホテル」の話すると「そうそう、泊まったよ、あの窓のない部屋」とか話盛り上がること少なからず。「場所が佐敦だった」ことまで覚えているがAustin Rdであることまで覚えている者は少なく、ではその富士ホテルはどれかといふと、かなり外観が変わったがこのビル(写真)。それだけの話。余も二十年ほど前にこの富士ホテルに投宿。深夜到着に、どこかで飲んでいたようなHISの駐在員が現れ中国ビザ取得のためパスポート渡す。窓のない部屋に荷を置いて成田の免税で購入のジャックダニエル飲み(当時この酒は日本で九千八百円ほどして高級で手が出ず)屋台街の廟街(Temple St)も近い筈、と当時にしれみれば深夜の九龍の大冒険などして(笑)ホテルに戻り翌朝になると「あら、不思議」もうパスポートには中国ビザのスタンプあり。それでKCRで深センに入り広州に夕方到着といふ段取り。これで何万人の若者が中国入りしたことか。深夜に着いて翌朝早く迎えのバスで発つたった一晩のことで富士ホテルの場所も朧げなのは当然だろう。
▼経済紙『信報』の随筆連載者に米松といふ人あり。「飽食集」なる題の連載は読んでいて飽食と感じることあり。本日。申訴専員(Ombudsman)に戴婉瑩女史再任されたこと取り上げ戴女史が再任された理由を記者に問われ「そりゃアタシが綺麗だからでしょう」と答えたことに不愉快と米松氏。それなら機会平等委員会の主席紅女史の離職は紅女史が美人じゃないからか、後任の王見秋の更迭は王が美男子ぢゃないからか……と咬みついて、戴女史が申訴専員公署が信徳中心内に自前のオフィス構えたことについて「このオフィスは今までこのオフィスビルで最も安く売買された物件で、この最低価格は誰にも破れないだろう」と自慢したことにも、そこまでできるなら政府の金融関係の局長職や金融管理局総裁になったら如何か、と。米松なる書き手、何もわかっておらぬのは、まず、戴女史お世辞にもいわゆる美人顔ではなし(写真)。その戴女史が「私が綺麗だから」と言ったのは明らかに政府高官の去就について世論から大きな疑問があり、その人選の信頼性が揺らいでいる現実だからこそ、の物言い。自分を卑下しての皮肉。勿論、ここ数年の政府高官の去就ぶり見ていれば戴女史が再任されないであろうといふ予測が殆どで、それを覆しての再任に周囲もそして本人も驚き喜んだのであろうし、その多少高揚した気分がこの皮肉や廉価不動産の取得などの物言いになっただけのこと。それを真剣に批判する米松といふ人の単直ぶり。
▼朝日の「夕陽妄語」で加藤周一先生が「それでもお前は日本人か」といふのを「かつての日本の」と書いているが、これはよく戦前の国体主義のなかでの印象的な台詞として使われてきたが今日これが怖いのはこの言葉が国旗国歌などの強制とともに復た現実味を帯びてきたこと。国旗国歌への尊厳もなくそれでも日本人か、と。これを言われた人はどう対処すべきか。答えはこれを言われた時に悩んだり反発したりせず「はい、そうです」が最良(笑)。「そうです」に対して相手はそれを躱すだけの言葉なきはず。先日なくなった網野善彦先生とかだと「それでもお前は日本人か」と質されたら日本人という範疇の定義についてで即答などできぬし質した相手にこの日本人というタームの曖昧さ、面白さをじっくりと語りそうで可笑しそう。