富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月廿二日(日)晴。朝より終日藪用あり。藪用の合間合間に原武史大正天皇』(朝日選書)読む。丁度ミニバスで天后に着き残り数章ありヴィクトリア公園のベンチにて太陽の陽光に汗ばむほどのなか読了。原武史明治維新から敗戦までの「近代天皇制を天皇個人とは無関係な一つの完結したシステムとして見るのではなく明治、大正、昭和という三人の天皇の違いから考察すること」に着目して特に最も語られることの少ない、そして語られる時といへば必ずのように「帝国議会の開院式で壇上で詔勅を読み上げた天皇が持っていた詔書をくるくると巻いて遠眼鏡のようにして議員席を見回した」といふ逸話と病弱で若くして崩御し大正は短い時代で終る、といふ話ばかり。これに対して原武史は確かに幼少の頃は病弱で昭憲皇太后(明治帝后)が出雲大社よりオホクニヌシの分霊とお守り取り寄せ明宮(大正帝)の健康祈願するほどであったし(アマテラスの子孫たるべき皇位継承者がオホクニヌシによって守られているというのは当時の政府の方針と明らかに矛盾していた……と著者は指摘するが、当時の明宮は側室柳原愛子の子で「親王」であり而も病弱とあっては皇室にあって「幽」の存在にあるといふ推測も可ではなかろうか)学習院での学業も進級すら厳しいものがあったほどだが明治33年に九条節子と結婚してから皇太子(大正帝)の健康はみるみる回復し沖縄を除く北海道から九州まで全ての道府県を巡った事実を著者は丹念に紹介する。その過程で重要なことは皇太子の写真姿が新聞などで庶民が気軽に見るものになったこと(いわゆる御真影として奉じられる写真に非ず)、そして皇太子が気軽に側近、訪問先の相手や臣民にすら声を掛け大正帝らしい突発的な質問をば下し問われたものが焦燥る逸話ばかり。この一連の動きが、戦後の昭和帝の全国行幸や国民に声かける姿の先駆なるものであるのは想像も容易、著者は「なぜ戦後も象徴天皇制として残ったのかという重要な問題が見えてくる」と示唆。確かに。……とここまで皇太子(大正帝)に纏る話はなんとも活発で和気すら感じられるエピソードなのだが、これが急変するのは日露戦争を境に。皇太子が戦勝報告のため伊勢神宮を参拝する時に(やはり伊勢が絡むのだが)初めて文部省がこの皇太子送迎する学生の敬礼の仕方に関する規定を設けたこと。軍と教育がナショナリズムにとっていかに重要かがここで明確になるのだが、それまで皇太子の社会教育、健康的な厚生活動の一環として行われてきた個人的な全国巡行がこの頃から朝鮮訪問など「「皇恩」を日本の隅々に行き渡せるための政治的なもの」に変質するのであり、皇太子の巡啓をもって鉄道が整備され電気が燈るなど文明化とセットになったことも興味深い事実。そして明治大帝の崩御があり大正帝として即位するのだが、原武史が指摘したことで最も興味深いのは、美濃部博士の天皇機関説について、病弱で思考にも障害もった天皇を有する「大正という時代そのものが機関説的な解釈を必要とした」と分析していること。天皇が個人的に何らかの問題があっても天皇という機関であり国家組織の一部であれば解釈として天皇制を国が統制できるわけで、寧ろこの天皇機関説が近代の天皇制を補完し充足すること。大正帝は即位後また幼少の頃からの病が復活し早くも皇太子(昭和帝)の存在が政府や世間に大きく取上げられるようになるのだが、ここで重要なことは皇太子(昭和帝)の欧州外遊で初めて活動写真がその光景を録画し各地でそれが公開されたこと。而も東京でいへばその上映場所が日比谷公園や上野、芝の公園だど普通選挙運動や無産団体の運動の拠点だった場所であること。そういった国家、政府にとっての危険思想の場所を払拭するかの如くナショナリズム煽る方法手段としての皇太子の画像が上映され人々がそれを信奉すること。そしてこの外遊から皇太子が帰国すると日比谷公園で奉祝会が開催され数万の東京市民を前に皇太子が肉声で令旨
余が前日歸朝の際は東京市民の熱誠なる歡迎の中に帝都に入り欣喜に堪へざりしが今特にこゝの場を設けて盛大なる祝賀を受くるは余の滿足する所なり。東京市は今方に都市施設の改善を講究すると聞く。余は切に好成績を得て市民の幸福と帝都の慇盛とを増進せんことを望む。
と述べると、これに応じた市民らが天皇皇后皇太子の万歳三唱。これが庶民の前どころか側近にすら言葉少なで威厳維持した明治大帝、気さくとはいへプライベートな会話ばかりでとてもパブリックオーディエンス相手には言葉を発すには何かと事情あった大正帝に対して、裕仁皇太子のこの「予め設定され多くの市民が注目する政治空間で用意してきた言葉を述べることを通して自らの政治的意思を公式に表明」する新しい天皇主体としたナショナリズムがここに誕生する。このナショナリズムの特徴は、庶民が天皇に対して直接の尊皇の意を擁くことにあり、それまで庶民にとって帝などただ遠くに位置するものであったのが、パブリックオーディエンスの効用で直に天皇を崇め、天皇の周囲の「夾雑物」例えば財閥であったり元勲であったり内閣といったもの、を取り除くことで己の思想を体現すること(これは、その後のクーデターなどに見られる天皇中心主義に行き着くことになるわけで、何か革命的改革が必要な場合に天皇を神輿に乗せることの危険性が此処にあり)。いずれにせよ裕仁皇太子の時代に、日の丸を振り最敬礼して君が代を斉唱し万歳を叫ぶ、その行為の象徴として己が天皇と一体化する、といふ空間が生れたこと。なぜこの本の内容をここまで詳細にこうして記載しているかといふと、今日の平成のナショナリズムで国旗国歌など崇めるのが当たり前とさも当然で歴史だの伝統だのといふ言葉でそれを全て括ってしまふ安易な思考が日本を蔽っているからであって、こうしてきちんと歴史を見てみれば、このナショナリスティックな行為が僅か八十余年の歴史しかない、而も日本が近代国家となるなかで意図的に作り出されたナショナリズムであるといふこと。日の丸を愛で君が代を歌うことで何か心が晴々とするその感覚が一世紀にも満たぬ感情でしかないことは改めてよく理解すべき。話は本に戻るがこうして裕仁皇太子といふ象徴を時代は得て、大正帝は病気の進行もひどく大正十四年に完成した原宿宮廷駅よりそっと葉山御用邸へと療養に向い翌年崩御。時代は「あの」昭和の時代へと突入し大正といふエポックメーキング的な時代は忘却されてゆくことになる。ところで「桜」についてこの本にも興味深き記述あり、大正帝の結婚祝賀で青森県では県内各地でソメイヨシノの記念植樹があり桜の名所として今日知られる弘前城の公園の桜もこれ。その後皇太子(大正帝)が全国を回るとその途中で桜や松が植えられるようになり「ナショナルシンボルとしての桜のイメージは、実は近代になって作り出されたものであり、近代天皇制、とりわけ大正天皇と関係が深いことに注目しておきたい」と原武史は指摘。この桜の象徴性は先日紹介したように村上湛君よりの指摘にあったように江戸時代からなのだが近代国家としての桜の象徴化は確かにこの明治末期からが急速なこと。ところで。上述の大正天皇の遠眼鏡事件が実際にいつあったのか当時の記録にて探すのが困難と原武史は述べるのだが荷風先生の断腸亭日剰にも書き留められていないことに触れたのはいいが断腸亭日剰を「巷の風説を数多く拾っていることで知られる」と紹介しているが果してそれほど風説拾っているか疑問。花柳界だの私娼の噂話な少なくないが。夕方尖沙咀。ジムで一時間ほど筋力運動。Z嬢もジムに参り落ち合って尖沙咀の寿司亭。回転寿司で所詮回転寿司の機械握りの舎利でもこれだけの質なら立派。香港文化中心にてJan Garbarek Group(ヤン・ガルバレク)のコンサート鑑賞。ジャズの香港公演は当然、日本公演の帰りに日本でのギャラで香港でお買い物が定番だがこのヤン・ガルバレクは25日がたった一日の東京公演。香港のギャラも高くなり東京のほうが物価安で東京でお買い物だろうか。誰がどう聴いても「ECMだよね、こりゃ」といふほんとECMレコードらしい(ECMは今思えば元祖癒し系)ヤン・ガルバレク。このサウンドがいかにも電通好み、いかにもサントリーがCMに採用しそうな音色。このバンドのRainer Bruninghaus(piano/Keyb)、Marilyn Mazur(perc)にEberhard Weber (b)の誰もが卓越した演奏家であり(個人的には同じフレーズの繰り返しとどの曲も展開パターンに差異なきことに多少の飽きを感じる二時間ではあったが)、その技巧ゆへ、殊にパーカッションのMarilyn Mazurの巧さこそこのバンドが単にフュージョン、単にケニーGにならぬ理由かも。とにかく演奏の巧さ。Rainer Bruninghausもキース・ジャレット的にピアノの即興演奏聴いてみたいところ。このところの演奏会はすべて香港芸術祭の一連の公演、チケットについてきたフリードリンク券余して缶ビールその場で飲まず頂いて帰りに濃霧のなかのスターフェリーで一飲。すっかり春模様。