富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月廿一日(土)薄曇。South China Morning Post紙の土曜日名物のClassified Post(求人広告欄)かつては土曜日のみこの求人広告がため売上げ伸びると言われており(ある程度以上の求人は英字紙にしか載らず) 九七年のアジア通貨危機以前は一六〇頁だかあった記憶あるが不景気にて頁数もかなり減っていたが今日は八十頁とかなり挽回。それだけ景気いい証拠か。朝、日記整理。今日は香港トレイル50kmのレースにて、四年連続で参加したが今年は本日午後藪用あり参加断念。せめても、とランニングクラブの精鋭四名参加あり、そもそもいつも四人組で参加していた彼らに「ビューティペアやてジャッキー佐藤マキ上田が最後は闘ったんやし猪木藤波やてそうやろ」とたまには四人バラけて出てみれなはれ、と勧めた一人としてやはり応援すべき、と朝七時半にピークをば出発した彼らは丁度半ばの25kmを九時半から十時前に通過の予定(なんで山道をば二時間で25kmも走れるねん?)で余はパーカー山道上りバトラー山(標高417m)の頂上で彼ら迎えるつもりでビートルズなど聴きながら山へ。ビートルズの初期作品は右からボーカル、左から演奏が聞こえることは有名だが、それを両耳から聴くことはつまり頭の中で通常のステレオに組み直す必要があるわけで、これが意外とボケ防止になるのでは?と思う。すでに二位で爆走するA君とはバトラー山頂に登る階段で遭遇。バトラー山の頂上で“A Day in the Life”など聴くとかなりシュールな気分。A君に遅れわずか二十分の間に十位代で三名とも通過。見事な脚力。四人見届け任務終了。バトラー山をJardine山側へと下り小馬山より無線電站潜りウィルソントレイル走る。さすがに人が山を走っているのに遭遇すると自分も身体動かさずにはおれぬ気分。昼すぎ銅鑼灣。午後九龍。写真は近く解体される長沙湾の工業団地。六十年代から香港の軽工業支えた小型工場の密集団地。すでに全ての工場の退出完了し壊されるのを待つばかり。夕方帰宅するまでに一気に原武史『<出雲>という思想』読む。タイトルの通り、伊勢神社を「顕」とする「幽」の出雲神道の見直しであるが、余は歴史の授業で平田篤胤国家神道と余りに短絡的に覚えたことを反省、確かに篤胤が国学復古神道として宗教化したわけだが、じつはそこには明治の国家神道とは異なる出雲のオホクニヌシを中心とした独自の神道があり、また国造(くにのみやつこ)が出雲だけ近代までこの国造が世襲で残り!、その明治の国造・千家尊福が篤胤以来の神学を受け入れたことで一気に出雲が思想的中心になるのだが、それが伊勢勢力の国体としての神道の巻き返しに遭ふ物語。国家統治の象徴となるアマテラスに対してオホクニヌシの宗教性、あの世にいかず近所のそのへんにいる神々。国家神道とは祭祀と宗教をば分離し公の国家神道を祭祀に限定して超宗教化し非宗教化して国家理念とする作業。ここで國體に合致せぬ宗教としての出雲神道、明治十四年の勅命による神道大会議にて太政大臣三条実美によるアマテラスを國の神とする勅裁が出て伊勢による出雲の抹殺に成功。千家尊福の「転向」。伊藤博文の推挙で元老院議官から貴族院議員、埼玉県知事から静岡を経て東京府知事となり西園寺内閣での司法大臣へ。神道は台湾神社や樺太神社に出雲のオホクニヌシが祀られ招魂社(のちの靖国神社=他の神社が祭祀化するなかで唯一宗教色をもつ)での護国神へと変容してゆく。ハーン=小泉八雲が最後の出雲派。大正期には國軆イデオロギーが完成し異端であったはずの平田神道、出雲がこの國軆の一部に。で、出雲は終ったかといふと其処に現れたのが大本教。大本の世界の大洗濯大掃除=世直し=大正維新(これは丸山眞男⇒宮台先生の天皇制の活用にまで結びつくはず……富柏村)が実は出雲神道からの流れあること。それゆえ國軆に乖くこの思想が不敬罪に問われ大本教の神殿が政府によりダイナマイトでまで!木っ端微塵に破壊されたといふこと。それほど出雲の活用は時の日本政府にとって禁忌。国家宗教のインチキぶりに気づいていたのが折口信夫。ところで氷川神社氷川神社といふと赤坂だが何といっても氷川神社で由緒あるは埼玉県大宮の氷川神社。じつはこの氷川神社、大川=荒川に沿った関東のこの域にだけかなり在るのだが(鹿島社の香取神社利根川流域)これがどうも出雲国氷ノ川の杵築大社の流れ。氷川神社とはつまり出雲。(「氷川きよし」も気になるところ、赤坂の日本の政治の中枢近くに氷川神社あるも意味深……富柏村)。で大宮は字の如くそういふ由緒ある強烈な神社がある場所であり埼玉は古来、関東の出雲。埼玉見直す(笑)。それが八世紀に坂東の中心は国府のある府中へと遷り宗教地=大宮は地位下落。だが実は、明治になり一瞬、この地の重要性が顧みられ、明治帝は一八六八(明治元)年陰暦十月十三日に東京に入り遷都したのだが僅か四日後の十七日には大宮氷川神社武蔵国総鎮守とする勅旨出され二十八日には天皇自ら大宮訪れ親祭をば実施。アマテラスでなくスサノヲ(オホクニヌシの親神)の前に天皇が垂頭し帝都守護する神として公式と認めたもの。大宮は県となりこの氷川神社門前町が県庁所在地となるのだが、なぜか明治二年にはなぜか県庁が中山道の小さな宿場町浦和に移され大宮は衰退の一途。この時期が伊勢勢力による出雲派の一掃にかかるのだが埼玉県の県庁所在地に関する「おもわく」は原武史氏をしても不明。何かあったのは疑いないが。この本の本文では原氏は「明治維新により帝都を守護する神々が祀られる「聖地」となったはずの埼玉は、その歴史を顧みられることもなく、出雲の神々のたそがれの里へと変容していたのである」と結び、埼玉にはあまりにニベもないが(笑)文庫本後書きでは、原氏は神道が結局、近代天皇制を支えるだけのイデオロギーとしては十分に機能せず、天皇は「見られる」媒体としての身体を媒介とする支配となってゆくことを挙げつつ、大宮が浦和、与野と「さいたま」市となった際に市名公募で原市が「氷川市」を推進した事実(結果的に二十位)、そして「さいたま市」などといふ何の意味ももたない記号が市名になったことを残念と述べている。読んでふと思い出すは畏友よしいち君の大宮市復興運動。これは重要なこと、と改めて認識。Z嬢お手製のコロッケ揚げてかなり食す。
文藝春秋は「史上最年少の19歳と20歳!」の芥川賞受賞2作掲載の3月号「大好評緊急増刷出来」だそうで御目出度いこと。次は17歳、あと数年のうちに中学生の芥川賞作家も登場か。そのうち全日本小中学生作文コンクールと大差なし。昨日芥川賞直木賞贈呈式。芥川賞の少女作家二人に「正賞の懐中時計」といふのが余りに似合わないから可笑。防衛庁長官石破二世は今月1日の北海道旭川で開催されたイラク派兵の陸上自衛隊隊旗授与式出席のため前日鳥取県での講演会行事出席後に鳥取県自衛隊美保基地より自衛隊輸送機で千歳空港入り。昨日の国会予算委員会で公私混同と指摘されたが石破僕チャンにとっては自衛隊機に乗れることが嬉しいのは当然で何のために防衛庁長官してるのか、乗らないはずなし。どうせならその輸送機でそのままイラクまで連れていってしまい現場作業させればよかったものを。