富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月廿日(金)曇。何も予定なき日。本当に何もないといふのは何ヶ月ぶりか何年ぶりか。何もない。高所恐怖症でなかなか「よし!」といふ気にならず汚れ気になる窓拭き。窓に安全防止のフレームなどかつてあったが風景をば邪魔する為に取り払ってしまひ眺めはいいが窓拭きにどうしても身体乗り出すと地上二十数階からの眺めはやなり岡田由希子。窓もきれいになると心も晴々。ところで岡田由希子といへば四谷四丁目のサンンミュージックなわけで四谷といへば文化放送だがJOQR設立したのがキリスト教の布教団体(現在の女子パウロ会)で、あの独特の建物も聖堂(教会)として祝別されたものとわかれば納得、当初の免許申請時はセントポール放送協会、が財団法人日本文化放送協会としてラジオ放送始め経営危機によりマスコミの左傾化に危機感擁いていた財界(すでに産経新聞の立て直し(昭25)とニッポン放送設立(昭29)の実績あり)により資本投入され昭和31年に株式会社文化放送となり翌年放送開始のフジテレビとともにニッポン放送文化放送で昭和42年にフジサンケイグループとなる(といふことをこちらより知る)。午前、Quarry Bay公園走る。本来、西湾河より北角に至る全長4kmほどの海浜公園のはずが太古城での道路工事の影響で公園遮断されなんと二年、漸く歩道橋がかかりユニーあるCity Plaza迂廻せずで通り抜け可。歩道橋はまだ仕上げ工事中ながら雇用確保もあるのか非熟練工による唖然とするほど拙く見方によっては前衛的なる塗装工事の最中。北角まで往復。途中の運動場にてインター校(たぶんDelia School of Canada)の体育の授業風景あり。今様の金髪に染めた少年と印度頭巾かぶった少年ら。ふと思い出すはフランスにてイスラム少女らの頭巾が公教育での宗教色排除のため被ること禁止といふ決定とあったが印度少年のターバンはどうなのであろうか。これも宗教色か。香港はその禁止「今は」ないがイスラムだのの頭巾などは目の敵にされ日本人少年の金髪頭はありゃ宗教性がない単なるファッションだから赦されることになるのだろうか……などと考える。昼にパスタ。午後転た寝を貪り夕方銅鑼灣の香港紅十字會輸血服務中心にて献血献血しつつ『東京トンガリキッズ』読む。そう、八十九年の六本木のディスコ・トゥーリヤの事故。ニュースステーションで「六本木のディスコ・トゥーリヤでシャンデリヤが落下し」と臨時ニュース。中森氏によるとそれが次報では「照明装置」となり翌日の新聞では「バリーライト」さらに「贋物のバリーライト」になった、と。中森氏
ボディコンの悲鳴引き裂くバリライト 血染めのワンレン雪のトゥーリヤ
と読む。新宿駅西口の路上に何日もあってクスリと結核だかでボロボロになった一人を病院に入れるため相方が路上に企ち売春までして……といふ「新宿駅最終出口」の短編は鮮烈な記憶あり、八十年代の「火垂るの墓」か。やはり当時『宝島』の連載で強烈に印象に残っている短編「たった一人の東京戦争」も秀逸。女性週刊誌を
ホラ、あるじゃん、感動ヒューマン・ドキュメント・中国奥地で全身毛むくじゃらの赤ん坊が生れたとか、亭主もナミダな夜十倍増の体位図とか、目の不自由な姑にミミズウドン食べさせた鬼嫁とかさ、そいでそのクセ五百円以内で安く作れる実用的便利料理帳なんちゃってさ、毛むくじゃらの赤ん坊と快感体位とミミズウドンと安い料理がゴッタ煮になってんだもん。生ゴミとか分別ゴミとか分けてないまるっきり節操のないゴミ箱だよね。主婦の頭ん中ってああなってますって見本なわけでしょ。アレじゃ清掃車も持ってってくれないよ、ホント。でさ、表紙なんて生ゴミのスキ間から苦しそうにもがきながらやっとフローレス聖子がアップアップ顔出してるって感じじゃん。あれだよね、結局。そう、グチャグチャのゴミ箱同然の女性週刊誌の表紙みたいな街……それが、東京。
と、当時、ここまでの東京の形容は他になし。短編「カステラ、食べたい」は文明堂の五三のカステラなのだが当時「カステラ」といふと新宿ロフトなどで人気あったバンド「カステラ」彷彿。このバンドの大木君がいまだに活動中。短編「人さし指のパンク」では
見れば、御茶ノ水駅から駿河台に降りる下り坂。右手に予備校、左手に石橋楽器。ああ、行く手を受験とロックに引き裂かれた悲しきお茶の水キッズ! オマケに駅前には選挙演説の宣伝カー、右手に自民党、左手に共産党がニラミ合ってる。正面じゃ、“中国天安門広場大虐殺に抗議を!”の署名運動だ。“怒リッ、天安門虐殺、略して、怒天!”だって。ひぇー。(略)ホントは誰も怒っちゃない。リクルート・スキャンダル。自分にカネが廻ってこなかったのがクヤシイだけ。ホントは何もわかっちゃいない。消費税。おつりの一円玉がメンドクサイだけ。みんなサル芝居。もちろん野党もつるんでる。総理はゲイシャとスキャンダル。新聞、サンゴに傷つけてる。パパママ財テク、姉ちゃんハイレグ、兄ちゃんワンレグパクパク……ボク、パンク。トウ・ショウヘイが見えない。
……となんといふイカした表現。献血でちょっとフラフラしたままジムで筋力運動。デリフランセで珈琲。ダブルエスプレッソが何を意味するかわからぬ新入りの店員が先輩に教えられて煎れたのが星巴より美味いのは何故?、豆の種類か焙煎か。Z嬢、香港演芸学院といふと若手お笑い芸人の養成学校の如し、だが倫敦のかの有名な王立真似た HK Academy for Performing Arts にて学生のピアノ発表会ありそれ聴いた帰りで待ち合せ。Gloucester RdにあるLouis Steakhouse、もう十年以上も灣仔の芸術中心で映画見た帰りにいつも気になっていた老舗の西洋料理屋、店内は窓から伺えず客の出入りも見受けぬがこれだけ長くやっているのは流行っている証左、唯霊先生もかつて書かれていた店で、ついに賞味。経営者然とした支配人氏の温情溢れる出迎え、先週のJimmy's Kitchenの酷さに比べこれが客商売の極意、とにかくよく働く給仕ら、エスカルゴと「板橋の駅前っぽい味」の鴨肝、で米国産牛肉のビフテキ食す。美味。Z嬢の話では吉野家がなぜ米国産牛肉に拘るかといへば吉野家が欲する部分が米国では消費せぬ箇所だそうで商売成立。それに対して豪州産の牛はいわゆる「霜降り」的にならず脂身と赤身がはっきり別れている上に牛肉は分けて売らず一頭そのままの買い付けが必要とか。葡萄酒は支配人氏の勧める新西蘭 Kumeu のHarrier Rise 97は確かにステーキによく合う。ギター弾き語りの楽士、上手いが支配人の気配りか谷村新司「昴」だの「上を向いて歩こう」だの日本語で歌われ、こういうことが苦手な余は閉口。思えば91年だかにZ嬢とかつてのリージェントホテルの今イチ個性はっきりせずで流行らぬ料理屋Plumにてフィリピンバンドに「さくらさくら」を演奏されて以来のことか。
自民党憲法改正、改正草案の叩き台にて憲法前文に日本の歴史・伝統・文化・国柄、健全な愛国心を盛り込む、と(朝日)。前文には現行憲法国民主権基本的人権の尊重、平和主義の三原則を掲げた一方、「誤った平和主義、人権意識への戒め」をば記載とか。普遍的であることが憲法を崇高なる最高法規とする。それが驕りの歴史を謳い、伝統や文化など法律には野暮、国柄など文章にすることぢたい国柄(小文字のconstitution)なき証左、愛国心どころか「健全な」と形容する不健全さ。そのうえ現体制から見て対峙するから「誤った」と見えるだけの平和主義だの人権意識を「戒める」とは自民党の驕り昂りも此処まで来ると立派。それに暗澹たる思い。この
日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、こゝに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものてあつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かゝる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本國民は、恒久の平和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覺するのであつて、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しやうと決意した。われらは、平和を維持し、專制と隸從、壓迫と偏狹を地上から永遠に除去しやうと努めてゐる國際社會において、名譽ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の國民が、ひとしく恐怖と缺乏から免かれ、平和のうちに生存する權利を有することを確認する。
われらは、いづれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に從ふことは、自國の主權を維持し、他國と對等關係に立たうとする各國の責務であると信ずる。
日本國民は、國家の名譽にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を逹成することを誓ふ。
といふ現行憲法前文の何処が悪いのか。この人権、平和主義、国民主権をば人類普遍の原理と述べ「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とまで宣言する崇高さに比べ、たかだか一国の歴史だの伝統、文化、国柄に健全な愛国心など謳う憲法前文などケツの穴小さいといふか矮小化された発想以外の何ものでもなし。そもそも憲法は、例えば聖徳太子の十七条憲法見れば仏教への帰依を除けばそこに歴史だの伝統、文化だの愛国心など謳いもせず。たんに真っ当な政事行へば自然と国は治る理を述べる。真っ当なる政治もできずたんに憲法変えて国が真っ当になるといふ安易さこそ聖徳太子が聞けば一笑に付すはず。大憲章とてフランス人権宣言とて同じこと。ハムラビ法典の内容までは知らぬが普遍法目指すことにより法は人がそれに従うだけの崇高さを得るのであり(樋口陽一先生)この自民党憲法改正案は聖徳太子の作った十七条憲法よりも退化すること。つまりこの改正ぢたい国の伝統に従わず文化に寄与せぬ行為。本来の愛国心などここにないことも明らか。
週刊読書人の書評で東方書店衛藤瀋吉著作集の書評あり。衛藤先生といへば十数年前に中文大学にお見えになり(アジア大学学長として)講演聴いてイマイチ何がこの人の学論であるのかわからず戦前の大陸浪人学者に憧れるのだろうなぁと思った記憶。それにアジア大の学長といふ身分で当時の中曽根君の学者文化人取り込み(浅利慶太堤清二梅原猛とか)もあり。その大アジア主義的な衛藤瀋吉氏もイラク戦争イラク支援法案も反対、と意見は明確。箕輪登先生が小泉三世を提訴だの、築地のH君に教えられたが野中広務先生も(共著だが)岩波ブックレットで派兵反対、亀井静香チャンは毎日紙上で「米国の誤りには直言せよ」と。旧守派といわれてしまうのだろうが保守派から意外な抵抗勢力の登場。結局、怖いのは新保守だの民主党の右派のあたり。このへんの若手が何をしでかすかが怖いところ。それに比べ保守の本流のほうがやはり正当か。