富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月十四日(土)快晴。気温廿数度まで上がり日向にて半袖シャツ一枚でも汗ばむ程。夏到来。急な気温上昇にこの時期特有のHazeがかり北角から見て中環の超高層建築も霞がかるほど。Hazeに適す日本語なし。熱帯靄か。歌舞伎の橘屋さん二年前に来港のおり香港の日本人墓地の話聞き日本人墓地になら桜の花でもあればと思ったのが契機にて香港に桜植える話持ち上がり橘屋の奥様K女史の奮闘にて東京の霞会館より提供受け本日、黄泥涌の日本人墓地、日本人学校3校と山頂の総領事公邸に桜の植樹。請われ日本人墓地の植樹の手伝いに参る。橘屋の奥様と数年ぶりに邂逅。話聞けば昨日まで歌舞伎公演にて台湾だったそうで今日も朝からTシャツ姿にて植樹の土スコップにて移すはやはり梨園において橘屋にしかできぬこと。眉顰める関係者も少なくなかろうが橘屋にはやはり敬服。この日本人墓地、実はもともと掃桿埔(現・香港スタジアム)に明治以来あった日本人墓地を昭和の初めに異人墓地内に移設したものにて邦人墓多い高台に萬霊塔あり、そこで植樹の式典。植樹にあたり土砂拯ふに使うスコップ、テープカットの金色の鋏こそ見たことあるが、金色のスコップとはお見事(写真)。新丹那トンネルの起工式でも金色のスコップはなかっただろう。これで土掘ると吉事といふことで李嘉誠にプレゼントとか、いや土建はやはりHopewell集団のGordon Wuに、だろうか。日本より橘屋と一緒に来た関係者に若い神主いらっしゃり祝詞。だが厳密にはこの萬霊塔(写真)は大正八年に大谷光瑞師来港の折に日本人墓地の存在知り寄進され自ら碑傍に香港日本人慈善会と揮毫されたる由緒ある塔にて光瑞師の碑の前にて神道祝詞も奇妙といへば奇妙なり。桜といふと日本の象徴。今朝も大和心と表現されていた出席者もいらしたが、実はこの桜の象徴性といふのはわずか明治以来のこと。勿論、桜は万葉集に赤人の
あしひきの山桜花日(け)並べてかく咲きたらば いと恋ひめやも
だの古今集小野小町の有名な
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
もこの花は桜だそうな。だが美しくも、あくまで美しい花なだけであり、歌舞伎でも例えば助六で新吉原には桜が咲いて遊郭の賑わい、道成寺も桜満開だがそれだけのこと。そこに桜といふsignifiantに対して未だ極端なsignifieは有しておらず。まさに上野の山の桜が満開なら綺麗だから見に行こうといふ落語の長屋の花見の世界。それが桜が象徴となるのは明治のことで、何といっても学制敷かれ財務など「年度」導入され桜の咲く四月が年度の始まりとなり、更にそのさっと満開となり散り際の良さに潔さだの、「同期の桜」といった、恐らく江戸の民衆が聞いたら何のことか皆目見当もつかぬ概念=幻想が生れたこと。本来、暦の上で年の初めは日本では梅。多少暖かい地方では桃。こうして桜の花の国家主義的なる象徴化や太陽暦にて正月だの端午の節句だの祝ふ「蛮習」など、たかだか明治からの新機軸がほんの半世紀もあれば心にしっくりと、と定着するのが我が国民の柔軟性か。桜が美しいのは事実。香港にて桜の花咲かせるに多少無理もあるが育てば桜を愛でること大いに好し。ただこの桜の象徴化が気になるばかり。ところで香港日本人学校の小学部大埔校にては九十七年の開校より未だに咲かぬ白蘭花ありこのたびの桜の植樹でその白蘭花が除かれるを知人知り
根もつかぬ櫻の花に手折らるゝ開校より侍ふ白蘭の花
と詠む。なかなかの秀歌。十数本の植樹終え昼に北角の寿司加藤。ご主人に小ぶりの身のよく絞まった鰰(ハタハタ)薄酢で〆て麹和えで供される。秀逸。午後、銅鑼灣にて某事。北角に戻り高座に上がる。多少仕事済ませて尖沙咀。聖ヴァランタイン節にて市街に若き異教徒たちのカップル氾濫。どう見ても「今日といふ日を独りで迎えるのはイヤ」が故にお互い筆頭候補ではないが妥協でくっついたと思われるカップル多し。盆踊りの晩の性的なる無礼講などこの若者らの恋狂い今日に始まったことに非ず目くじら立てなどせぬが、盆踊りなら盆踊りといふ地方の風習に則った風土的狂乱であるのに対して、何故に異教徒が聖ヴァランタインの名を用いて興奮するかが不謹慎。Z嬢と待ち合せ海防道街市の徳發にて牛南麺。さすがに徳發はヴァランタインメニューなし。文化中心にて平田オリザの「東京ノート」観劇。平田オリザの代表作で評価高く海外でも繰り返し上演される。舞台は美術館のロビーという設定、この香港文化中心の小劇場で周囲の回廊を美術館に見立てるなど工夫もあり。2014年に欧州で大きな戦争が勃発しており戦火逃れるため多くの絵画作品が日本に集まる……といふ時代設定、九十四年の初演当時すでに伯林の壁すら崩壊しており欧州大戦といふ設定がどこまで設定としてピンときたのか定かでないが、而もそれが〇四年といふ今日この日にあっては2014年にはむしろ日本が戦争に巻込まれている可能性のほうがよっぽど高し。ならば寧ろ「巴里ノオト」といふ題で、2014年にすでに政界から引退のシラク元大統領が戦乱の日本より日本の貴重な財産である関取衆を巴里に集め欧州で相撲興行続け相撲文化の維持存続、その巴里にある相撲部屋舞台にした舞台劇などのほうがよっぽど面白いのでは?などと思ふ。勿論、「東京ノート」の会話の中には戦争を他人事して見ていることへの強い抗議であるとか、日本でも徴兵制が始まるらしいといふような不安感もあり。平田オリザは本人のノートで曰く「国家間の大きな衝突と、家族という最も小さな集団の葛藤と、を、見つめていただければ幸いです」。だが残念ながら余には「その二つの混沌のなかで、静かに揺れ動く何ものか」の存在こそ察することはできてもさすがにそれを「見つめる」ことはかなり難しい作品。エゴなのだろうか?、人間の無知なのだろうか、悪くとらず人間の集団に対する愛なのだろうか……わからぬ。それにしてもこの平田先生(と書くとどうも平田篤胤……笑)のノートは最後は「近未来の美術館を舞台にした『東京ノート』は、家族や人間関係の緩やかな崩壊を描いた作品として、90年代演劇を代表する作品として、国内外で高い評価を得ています」と結ぶ。通常、作家本人が自らの作品を「国内外で高い評価を得ています」と書くだろうか(笑)。平田オリザの作品を一度見ただけで酷評は避けるべきだが(実際には避けてないが)、素直にとても正直であるしいい人なのであろう。実ハ、ノートを読めば、その「その二つの混沌のなかで、静かに揺れ動く何ものか」が「あ、家族や人間関係の緩やかな崩壊」に向う「あれ」なのね」と読めてしまふから作者の余りに明解すぎる書きぶりにこれを読んでしまったら芝居がつまらないだろうがっ!、と思うのは余ばかりぢゃあるまひ。ポスト9-11の時代にはもうこれを近未来のフィクションとしては芝居で見ていられず。現実は「それ」すでに崩壊してしまっているのかも。香港島に戻るフェリーの中でもZ嬢といろいろ芝居について話すが巴里ノオトの筋ばかりが頭駆けめぐる。ところで。ダメ元でも希望は捨てぬべきではなし。タクシーで太古坊。East End訪れヽばサッカー試合の中継あり満席。ようやく一卓見つけ坐ると柱の裡でサッカー中継見えずなぜ空席だったか合点。寧ろそれで好し。かなり久しぶり。数名の店員に「香港にいたのか?」と声かけられ背中叩かれ歓迎される。地麦酒2パイント飲み帰宅。
▼昨日ふと思ったはインターネットにて言葉と画像についてはgoogleの如き傑れた検索あるが「音楽」こそ曲は覚えていても「あ、あの曲、何といったか」と悩むことかなり多し。1小節、短いフレーズしか頭に浮かばぬこともあり。そういった場合にgoogleの如き検索で短いフレーズ歌うなり鍵盤で弾くなり楽譜に落とすなりすればたちどころにその楽曲が何か探しあてるようなソフトあればかなり便利。盗作防止にも役立つはず。