富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月九日(月)寒さ続くが久方ぶりに晴れ渡る。昨日の長距離走で体力虚弱。走行よりも殊にレース終了後の寒さの由。文藝春秋三月号読む。塩野七生イラク派兵について語り十年ほど前に一度だけ防衛大の卒業式に来賓として出た塩野が興味もったはこの式に首相や幾人かの国会議員が並ぶ中に小泉三世の姿あり。他の議員が「各党の防衛問題関係者であったのに」小泉三世は「この地が選挙区だからという、笑っちゃいそうな理由で来ていた」こと。小泉三世をば塩野は茶化しているようだが「しかし、そのような理由ならばなおのこと、三十回は見てきたはず」と(だがこれは小泉三世の衆院初当選が72年のため議員生活三十余年ゆへ選挙区である防衛大学の卒業式も当然同じ年数出ている「はず」ということなのだが確かに昭和32年に第1回の卒業生送り出した同大学校ゆへ父純也(小泉二世)の当時より卒業式参列あるやも知れずいずれにせよ全て憶測の域)で塩野が凄いのはここから一気に「一度しか(防衛大の卒業式を)経験していない私でも、イラク派兵が決まるやあの光景は思い出した」のだから「これを氏(小泉三世)は、三十年間も見つづけてきた」のだから「その彼らを荒海に送り出す決断も、苦渋の末であったに違いないと想像している」と結ぶ。最後を「……に違いないと想像」と断定を避けただけでもさすが文筆家だが、いずれにせよ「三十回は見てきたはず」が「三十年間も見つづけてきた」になり「だから決断も苦渋の末」ともってゆくのはあまりに極論。かりに三十回見てきたであるにせよ、ならばこそ大嶽教授の指摘の通り小泉三世にとっては美化された自衛官への思い込みが高揚するのであり勇敢なる逞しき姿への感動!こそ小泉美学。「苦渋の末」と三世の感情を美化はできまひに。「緊急発言」という記事は何かと思えば「小泉演説に「日本は立ち上がったのだ」(と)涙した」(笑)米国国務副長官リチャード・アーミテージ君の「憲法九条は日米同盟の邪魔物だ」なる発言の記事。アーミテージ君といってもピンと来ずとも昨年三月に拉致被害者の人たちの家族の人たちの訪米で華盛頓にてこの人たちの人たちに会見した国務省高官といへば「ああ、あの巨漢」と思い当たる節あり。この記事でも毎日380磅のベンチプレス欠かさぬと豪語するこのア君の姿、誰かに印象ありと思い出せばLarry Clark監督の“Ken Park”に登場せし軟弱な義息に男らしさ強要する典型的なホモフォビアの父親。そういう意味ではこのア君が非常に米国的であるのだが、どうであれア君程度に戦後の日米安保がどのように培われてきたのか(それは岸的な意味での安保推進・擁護も含め)=九条のあらゆる意味において、を考えればア君程度にそれをそう簡単に「邪魔者」とまで罵られては。ア君の無知ゆへの発言が許されてもそれをわざわざカネや太鼓鳴らして掲載する文藝春秋の不見識。保守を含めた「戦後」に対してあまりにも失礼な物言い。自衛隊派遣について著名人37人アンケートといふ特集もあり(……なぜ毎月ここまで執拗に文藝春秋誌の記事取上げるのか我ながら不思議だがどうせ意外と余り、特にオヤジ除けば、読まれておらぬ雑誌ゆへ読んでない方にはこのダイジェストも多少の意味ありかと信じて)、この派遣の是非を問ふのだが、(余の知る名前だけで挙げれば)
賛成……阿川尚之(駐米公使)、キャノン御手洗、オリックス宮内、上坂冬子西尾幹二橋爪大三郎三浦朱門
反対……橋本大二郎鶴見俊輔松本憲一、阿部謹也岸田秀上野千鶴子阿刀田高梅原猛、柳田邦男
と非常に「この人なら」と判りやすい顔触れ。傑作は「反対」の料理評論家・小林カツ代
小泉氏はじめ、派兵賛成派がことあるごとに言う言葉「お金しか出さない日本、これでは真に平和貢献とは言えない」。石破防衛庁長官もテレビでしたり顔で「よその国の人が出しているのに日本はお金だけ出せばいいと思っていいものか」のっぺりと無表情でいう姿に吐き気がするほど腹が立つ。お金しか? お金さえ? なんですかそれ! 冗談じゃあない。国民の中の派兵賛成派も正義感に燃えて錯覚している。なぜ錯覚かというと、金だけじゃねえという、そのお金は、誰が稼いでいると思っているのか。私たち国民が、毎日、働いて働いて、くたびれ果てて得るお金がまさに血税イラクまで行って何かするわけでもなくとも、この日本で、体をこき使ってよその国に、それも多額のお金をあげるのです。平和のために何もしない、なんて二度と行って下さるな。
……と凄すぎ。真っ当。意外なような、いや意外ぢゃない?、よくわからぬ「賛成」が久世光彦
アメリカ人にもイギリス人にも、フランス人にもイラク人にも、グルシア人にもあって、日本人だけないのが≪祖国≫である。今回の自衛隊イラク派遣は、≪祖国≫の誇りを賭けた義挙であり、彼らは栄光の戦士たちだ。これによって私たちは、連帯と、身の引き締まる緊張を回復しなければならない。その根本にあるのは≪死生観≫だ。肚を括ってかからないと、≪誇り≫は容易に砂漠の≪埃≫になってしまう。だから、家族と相談したい人は、行かない方がいい。時に家族は諸悪の源である。
……ってもう支離滅裂。西尾先生以上。昔から支離滅裂が売りでもある久世先生だが連帯とか緊張感とか祖国という観念は自衛隊員が生死かける場所に遣られてまでせねば得られぬものなのか、つまりそれだけ幻想、自衛隊員の命はそんな幻想得るための手段か。誇りと埃など下らぬ洒落を言っている場合に非ず。興味深きは「どちらとも言えない」選んだ数名。カミソリ後藤田先生は内容は反対なのだが「どちらとも言えない」はやはりお立場ゆへか。蓮實重彦呉智英あたりはこの可否といふ二元対立の無意味さを歎くもわかるところ。そして永六輔先生が「どちらとも言えない」で文章に「農業を大切にする農耕民族に徹しましょう」と、実はいちばん畑を耕すことなどしていないのが永先生といふ揶揄もあるが、答えを読めば「反対」だが文春での議論に参加することぢたい「利用されている」ことになることからの乖離のよう。芥川賞受賞の「話題の」二作品読む。金原ひとみの『蛇にピアス』。文藝春秋の読者=オヤジの誰がこの「舌にピアスして舌を切って蛇みたいにしたパンク君、パンクちゃんたち」のH話を読めるのだろうか、と不思議。だが読んでいて感じたは、確かに舌にピアスはピンとこなくても基本的に陰茎に真珠填めるのと何ら違いはないこと、舌にピアスという事項除けば、凡庸(村上龍)な作品で主人公たちが生きる力を失っていく(同)ことなどいい悪い別にして普通。物語の最後も「えっ?」と思うほど平凡といふかアットホーム的予感すらする安らぎの世界で、最初の「舌にピアス」でゾッとしたところからだんだんと「なんだこの若者たちもみんないい奴じゃないか」のような予定調和あり、これだからこそ「文藝春秋で」載せてオヤジたちが読んで(作家の年齢の三倍すると読者だ)なんか今の世の中理解してしまった、のような世界。綿矢ゆり『蹴りたい背中』も女性誌のモデルの女の子をおたく的にファンする「にな川」君というイワユル「ひきこもり」を(事実上の)主人公にするところが斬新かも知れぬがよく読むとこの「にな川」君も実はけっこういい奴であり、これって日本まんが昔話に登場していたよな、といふ感あり。とくに二十歳の新鋭作家登場といふほど斬新とかでなく寧ろ両作品とも非常にノーマルなところに落ち着いてゆく話。ところで「にな川」君というとどうしても蜷川幸雄先生を想像してしまふが文藝春秋の読者だと京都府知事にまで遡る可能性も大。講談社選書メチエ原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』思想としての関西私鉄、読み始める。原武史のぐいぐいと読者引っ張り込む面白さ。明治帝の大阪での勧業博覧会への行幸大正天皇大嘗祭の「たかだかお召し列車の運行」でここまで哲学できようとは。原武史も凄いが柳田國男が鉄道の発達を近代国家における臣民統合の装置として捉えていたといふこと知り更に驚く。私鉄の反権力的なる文化であった関西が昭和の初めに着実に昭和の秩序の介入受ける歴史。父より実家に神保町と京都の古書店より届いた河上肇『貧乏物語』と『自叙伝』郵便で送られる。『自叙伝』は築地H君のと恐らく同じ昭和26年の、岩波新書と同じ体裁だが新書とならぬ当時の初版本。
▼最近のこぶ平がいいらしい。とくに志ん朝師匠逝去のあとこぶ平が落語界背負ってゆく覚悟できたか俄然古典落語で「えいっ」といふ話聴かせるとか。十年ほど前に猫を拾い、その猫がいつも手を額に当てている姿が三平師匠の「どーもすみません」にそっくりで三平と名付けたが、当時の心配はこの猫がまだ去勢前でもし子どもできたり、また次の猫を飼ったら名前がこぶ平だろうか、と察し、こぶ平ぢゃねぇ、と十年前の当時はまだそういう時代。テレビでコメディアンや素人芸人にやりこめられている情けなき姿ゆえ。それがねぇ、噺家として育てられたもの。
▼米国大統領ブッシュ二世テレビの政治討論番組に出演しイラク大量破壊兵器見つからぬ問題で「サダム・フセインは危険な男だった。少なくとも兵器をつくる能力はあった」と述べ製造能力を根拠にしてイラク戦争を改めて正当化。この詭弁などもはやお笑いの域。しかも世界で最も危険な男がそれを宣ふというオマケつき。「能力があること」で危険とされ征伐されることが許される、これが米国の自由主義の怖さ。
▼東京都の進める大学構想で新大学の校名が首都大学東京で学長が東北大学元学長の西沢潤一君に決定。この大学構想は都立大といふ日本の大学でもとくに「思想がかった」研究者多く自由闊達という問題抱えた大学をいかに正常化するか、という意図でのこと。その大学の学長に産学協同の代名詞たる「ミスター半導体」西沢君選ぶは当然の理。都立大の事実上の廃止に疑問あり反対の声高いも当然だが(こちら)抜本的に石原慎太郎都知事に選んだのだからこの都立大解消は当然。都立大改悪に反対=反石原であろう都民が少なくなかろうが石原選んだ都民が絶対多数なのだからどうしようもなし。それにしても首都大学東京といふ野暮な校名。首都大学=Capital Universityなどいかにもありそうな名前だが実は首都などと言わずもがな東京、倫敦、巴里といえば首都なわけで東京も東京大学あるため東京都の大学が都立大学(Tokyo Metropolitan University)としたが、これは米国でいえば州立大学なわけで名前、格としてけして遜色なし。寧ろ首都などとわざわざ銘打つのはオハイオの田舎にある大学。北京の首都経済貿易大学は首都=北京は明白ゆへ当然、北京首都経済貿易大学などと言わず。而も東京首都大学とせず首都大学東京という語順も珍妙。これは普通、例えば慶応藤沢とか日大三高とか明大中野とかA(大学)あってのB(キャンパス、付属高校)といふ場合の名付けの語順であり首都大学というものに東京校あるのならこれでよいが首都=東京であり他に首都大学は存在せぬのだから明らかにひどい名称。もしくは「天婦羅 日本橋 みかわ」というような料理屋の名前で、この場合はAにくるのが普通名詞でBが固有名詞であるべき。「大学 首都東京」であればこれでよし(笑)。発想が都立大潰しと貧困ゆへ学長の人選から学校名称まで貧困さ露見される。