富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月七日(土)曇。気温摂氏十度。午後九龍に藪用ありそれまで何するでもなく過ごす。地下鉄乗れば早いところ九龍バスの新型バス(先日ミニカー購入)に乗るべく土曜午後早くは雨で道も渋滞し一時間余。乗心地は確かに快適。復路の地下鉄でまでで大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』読了。八十年代末からの政治改革と政党政治の改変のなかで細川護煕から田中真紀子、小泉に至るポピュリズムの変遷を「かなり」詳細にわたり綴る大嶽先生。執拗。読み続けて確かに綿密なのだがルポライターの記述ならそれで満足だがなぜ大嶽先生ほどの政治学者が?と感じざるを得ず。確かに湾岸戦争の際に「あの」イラク派兵の小泉三世が当時は自衛隊の海外派兵に批判的な立場とり柬埔寨PKOにて日本人文民警察官殺傷された際は「PKO活動では汗は流すが血を流してもいいというはずではなかった」と撤退論を主張したなど、9-11テロでの米国への全面協力への変節を来す以前の小泉三世であるとか、小泉三世が「自民党をぶっ壊す」「ぶっ潰す」と気勢上げたのも実は「自民党内の抵抗勢力が自分(小泉)の足を引っ張るなら、といふ前提であることとか(今となってみると小泉三世「自民党をぶっ壊す」どころか結果的に日本をぶっ壊した感あり……富柏村註)、小泉三世の思考回路が「複雑な社会現象を抽象的なレベルで体系的に思考する能力が弱い」ため「政治問題などを、極めて具体的、かつ感情的なレベルで捉える」ため靖国問題での韓国や中国の非難など外交問題になることも特攻隊の隊員の遺書を読んだ感動が外交すら横に置いての靖国参拝になること等々、さすが大嶽教授といふ的確な分析も各所にあり。だが田中真紀子の感情的なる逸話などなぜ?といふほど頁を割いて逸話紹介する必要があるかどうか。結局、最後の二行「日本社会には、ポピュリズムの登場に抵抗する力が決定的に不足しており、(飽きらせる)「時間」という解毒剤に頼らざるを得ないのが現状である」と、この二行が全て。寧ろ大嶽教授らしい「分析」は「あとがき」が秀逸。要約すれば
今日の日本政治にとって最大の不幸は「改革派」が常にマクロ経済には誤った政策を掲げ政権をとった途端にその過ちの実行で景気回復に冷や水浴びせ続けバブル崩壊後の景気低迷が続き、むしろ所謂「抵抗勢力」がマクロ経済的には的確な政策を提唱し抵抗どころか改革政権の失策の被害が致命的になるのを阻止してきた、と。こうして政治的課題の解決の期待を担い登場した改革派政権はいずれもマクロ経済運営で失敗し僅か一年程度で失速し敗退していく。⇒細川、羽田など。そして抵抗勢力により経済政策が経済危機の回避には成功するのだがその勢力特有の政治スキャンダルや目に余る財政の無駄が世論の顰蹙をかい⇒橋本、小渕、また改革派への期待が高まる⇒真紀子、小泉……とこれがこの十年の日本政治の「期待と幻想の幻滅のサイクル」を生んだ構造的要因。
……と、あとがきの内容こそ本来、政治学者の政治分析として本文になるべき内容。このへんが大嶽先生の面白さといへば面白さか。競馬全く当たらず。晩に銅鑼灣怡東酒店エクセルシオールホテルのイタリア料理Camminoにて明日の香港マラソン参加に台北からのY氏、フルに出場のため禁酒のI君、ハーフに出るのに昨晩も深酒のO君、すっかりアスリート辞めたH君とZ嬢で晩餐。歓談。余も新弟子検査の如く今季は明日の香港マラソンまでに着実に斤量増える節制不良。今さら反省してもどうしようもなし。明朝の寒さも厳しそうでI君の提案でスタートまでの寒させめてもの陵ぎにとセブンイレブンで使い捨てポンチョ購い帰宅。
▼禽鳥インフルエンザ。新聞にはインドネシアの農村にて流感に感染せし鶏鳥生きたまま穿穴に放り火放ち焼き殺せば羽焼けるに驚き白煙あげ逃げ惑ふ一羽の鶏と笑って眺める村民の写真あり。惨し。
▼朝日のオピニオン欄に米国の政治学者により「犯罪報道で外国人への偏見なくせ」といふ文章あり。意見は至極真っ当。外国人を加害者とする時のセンセーショナルさに対して筆者は報道で加害者が日本人の場合に「今回の日本人による犯行は日本の犯罪社会ぶりを如実に示す例である」といった書かれ方はせず、具体的に日本人に比べ外国人の犯罪傾向が高いと結論づけることはできず、偏見と言わざるを得ぬ……と。この犯罪報道の例に歌舞伎町フリーライター殺人事件挙げ「当初、歌舞伎町の闇社会にかかわる外国人の犯罪かと報道されたが、逮捕された被疑者は日本人であった」といふ「事実」を用いている点が気になったところ、すぐ築地H君よりも「微妙」とメールあり。H君によれば容疑者逮捕ののち東京新聞のみこの容疑者の「出自」と微妙な表現ありとのこと。