富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月廿九日(木)曇。香港の学校など今日、明日も未だ連休とし学生おらぬ分、早朝の通学ラッシュは未だ見られぬものの昼の市街には人出戻る。依然として大陸から田舎漢の旅行者多く地下鉄驛にて乗り方わからず右往左往の様。香港は旧来三が日休むが常にて法定の連休も三が日、今年は初四日が日曜にて十九日月曜より平日のところ中国は初一より一週間の大型連休にて昨日まで。香港の企業も製造業など大陸に倣い大型連休とする社も少なからず。ところで。余の好む芸人にTerence Trent D'arby君あり。八十年代後半に彗星の如く音楽界に現れし歌舞音曲に傑れ容姿端麗なること比論を絶す。処女盤“Introducing the Hardline According to Terence Trent D'Arby”評価高く活躍期待されしところ才能傑出の反面驕慢なる態度不貞不貞しき面もあり続作評価低し。四作目“Vibrator”に起死回生図るが振るわぬままTerence君のCD欄もHMWなどにて見あたらぬ様も憐れ。iPodにて彼の往年の名盤聴きふと気になり網上にて検索せば彼のサイト見つかり(こちら)眺むればSananda Maitreyaなる名に改め今も地道に活動する姿あり。嬉しくも嘗ての美貌も何処にか失せ「ロイクのオヤジ」と化す様見らば二旬近き年月経たることの証か。顔に刻まれし皺の筋のぶん音楽もより人に感銘与ふを期待し彼の新作といつても二年前のCDをば通販・亜馬生にて購ふ。遅晩に『世界』二月号にて「監視される教師たち」なる亡都・東京にての都「政府」に依る徹底した国旗国歌強要の様を読む。都教委の姿勢たるものもはや学習指導要綱、国旗国歌法、時の首相小淵君「国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えていない」だの内閣官房長官野中君「起立する自由もあれば、また起立しない自由もあろうかと思うわけでございますし、また、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあろうかと思うわけでございまして、この法制化はそれを画一的にしようというわけではございません」などの答弁をば(この答弁が本人のかりに良心から発せられたものとしても「党として」は改竄さるゝことは明確に予見されたが、いずれにせよそれらを東京都は軽く)超越し憲法すら脅かすほど。唯一の足枷せが憲法十九条の内心の自由であり、強制が都教委の通達に謳えず忸怩たる思いにて口頭での校長への命令となる。石原ファッショ知事将いる東京都もはや亡都の体、教育長が「そもそも国旗国歌については強制しないという政府答弁から始っている混乱」と述べ教育委員が日本経済調査協議会なる団体の提言引き合いに出し地方自治体の教育委員会制度の存在自体を非常に否定的と見解示し、教育基本法の改訂も財界の支援などあり「通る」と自信。都が政府に従わぬのは地方自治の一つの良識でもあろうが、法律だの政府見解を否定し憲法にまで抵触する状況見れば、果して日本は法治国家なのか、と公憤あり。法が足枷となり勝手に法をば踏み躙り憲法とてイラク派兵の如く憲法が間違っている、だから改憲要すと首相が宣ふ。本来、法治国家ならば問題的あらばまず法を改正する必要あり、立法議員選出が国民により成されることにて国民の世論立法に反映されるもの。それを法の蹂躪など当然にて而も最も深刻なる問題は立法議員による法の蹂躪をば見逃す国民の愚かさ。『世界』のこの記事憂ふは国旗国歌の強制にて何も考えずただ従ふだけの姿勢をば人々に強要することが教育現場にてなされるといふ問題。自らの考えあっても行動に表さず秩序に忠実に従うこと。狙いは其処にあれど実は全く社会秩序になど従属せぬ者濫れ、社会はただ混乱の一途にあり。韓国ソウルにて日本人幼児襲撃事件あり。キチガイ増えるも当然の世ながらこの事件にて更に安全確保謳われ社会の安全脅かす「敵」への備え徹底など強調されるのであろう。が、役所のできることは「児童生徒の安全確保」といふ表題にこの幼稚園での惨禍踏まえ「幼児児童生徒の……」とすること程度か。真実は、その徹底をばどれだけしても被害減らず寧ろ治安徹底など社会に装置持てば持つほど病ひ蔓延り更に深刻なる「敵」多く輩出すること。行く末暗澹たる社会が其処にあり。
▼中国政府外交部、禽流感染症(鳥ウイルス)の発生源が中国であるといふ報道につき事実無根である、と発表。「誰が病原菌か」と流布するほうもするほうであるし問題は誰が病原菌かに非ず病原にどう対応するか、の問題のみ。この点において病原対応の事実公表に疑いがあるから中国疑われるのであり、中国も中国バッシングととらず、何故に疑われるのかを理解すべきだがそれもかなり難しきところ。中国といへば今月上旬の香港基本法めぐる「護法」の法学権威の来港のことでふと思ったのだが「護法」が本来は法が「人を護る」べきものが中国は法=つまり法策定の国家を護る「護法」になっているのが中国政府の根元的問題なり。
産経新聞愛す(笑)築地H君、産経の多少の論調にはもはや驚かぬが、と……但し今日の「産経抄」一読し考えさせられることあり。
国会は相も変わらぬ不毛の論議をやっている。その一つが、野党側の「イラク戦争大義はあったのか」という愚論である。大量破壊兵器が見つからない問題のむし返しだが、一体、戦争や革命に大義や正義というレッテルを張る必要があるのだろうか。
中国の孟子は古くから「春秋に義戦なし」と喝破した。「彼れ、此より善きは則ち之あり」として。春秋は魯の国の史書だが、この天下に大義のある戦争なんぞあったためしはなかった。せいぜいこの戦争よりあの戦争の方がちょいとよかったくらいだという(諸橋轍次氏の解説)。
在イタリアの作家・塩野七生さんも文藝春秋二月号の巻頭コラムに書いている。「歴史を振り返るならば戦争にはやたらと出会するが、そのうちの一つとして、客観的な大義に立って行われた戦争はない」「もとからし大義なるものが存在しないからだ」と。
早い話が、宗教的原理主義イデオロギーにかかれば、すべての戦争に自己正当化の大義がつけられていく。イスラム教ならなんでも「聖戦(ジハード)」になり、キリスト教ならなんでも「正義の戦争」になるごとく。
かつて大東亜戦争は日本にとって“皇戦”だった。それが東京裁判では“侵略戦争”に一変し、しかしいままた東京裁判への疑問が起きて戦争の意義が問い直されている。イラク戦争大義がないというのなら、ではサダム・フセインの独裁の側に正義があるとでもいうのか。
不毛で無用なレッテル張りは後世のひまな史家にまかせ、日本の国会は国益を踏まえたイラク復興の現実的論議をすべきなのである。
と。H君曰くH君自身「愛国心のないことでは人後に落ちない自負はあった」(笑)がこういうのを読まされると「日本人はここまで品性のない民族ではない!」とか柄にもなく公憤を感じる、とH君。南太平洋に散華して護国の鬼となった英霊に顔向けできようか?、どの面下げて靖国神社に参拝するか、と。品性。世界最大の植民帝国たる大英帝国は今に至るまで「大義」の是非をめぐり国家的論争を繰り広げるが大帝国には大帝国としての矜持もあれば正義もあり。やってることは実は極めて卑劣なことなれど、だからこそ手続き的な正義や合理性、法的正当性には完全に気をつかうのが道理。言葉かえれば、外形的な正当性も英国にとっては支配統治の武器、「われわれは正義です」と。いかに宗主国の弁護を買って出るにしてもこれ(産経)では贔屓の引き倒し。米国は完全に「正しい戦争しかしない」というのが国家的命題。米国は常に正義の戦争を戦ってるのに子分の分際でそれを否定するような言説……(笑)。米国の正義を追求すれば「民主化」「人権」「自由」とかいう産経の大嫌いな題目認めざるを得ず、それゆへにそこを見て見ぬふり、語らぬふりをしたのか。そこにあるのは無意識に「米国の正義」に同調したくはない、という気分だけ。何より驚くは、イラク戦争と占領の正当化と「東京裁判史観」の否定は、論理的には絶対に整合せず。熱心な産経の読み手たるH君から見れば、いつもこのネタにふれると産経は「ふだんにもましてメロメロの混乱ぶり」の致命的弱点。そしてこうした売国的言辞になぜ「右翼」「民族派」怒らぬのか、が最大の問題。
蘋果日報が米国聖路易士快報(セントルイスエクスプレス)の報道とて伝へる処では一時間程のランニングや自転車騎乗にて体内に分泌せしむるAnadamideなる物質が大麻の成分と類似し其れにより運動後の麻醉的なるゝ快感あり、と。研究に依れば身体から分泌せらるゝ此の化学物質は運動せる事による圧力或いは疲労感をば軽減させ但し有害性は認められぬ、と(当然……笑)。今後は慢性疾患等の治療で此のAnadamide等の物質の研究成果に期待。……畢竟大麻等麻薬扱ひするは取るに足りぬ事。或は大麻禁止せるなら真剣に同等の麻薬物質分泌につながる長距離走や自転車搭りをば禁止しては如何か(嗤)。大麻取締法改正し「大麻及び大麻類似物質分泌につながる長距離走等持久運動取締法」とか。で何が問題になるかといへば此の法律の管轄省庁が大麻だつたら厚生労働省だつたものが運動が入る事で文部科学省より横槍入り省間でのくだらぬ交渉……筒井的か。