富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月廿八日(水)Happy Valleyにて夜競馬あり。招待あり会員ボックス席にて而もD棟1階といふまさに競走馬パドックから出で馬場に返し馬するも手が届かなんばかりの上席にて食事しつつバルコニーよりゴール斜に競馬観戦楽しむ。途中いくつか面白き複勝当てた程度で惨敗。馬主C氏のDashing Championも満を持しクラス2にて得意の一哩競争、調教の試走も上出来、二番人気とかなり期待のところ五着と振るわず。C氏への賀正挨拶も控え帰宅。山崎俊夫作品集のうち補巻一、戦後の山崎の随筆などいくつか読む。圧巻はやはりすでに一読の「荷風挽歌」にて、先生に若き頃に絶賛されながら期待に背き著者、荷風先生の逝去をば知り(……これの逸話すでに余の日剰に紹介ゆへ省略す)何といっても告別式の日の京成八幡驛にての堀口大学との邂逅と自動車に坐す佐藤春夫への目礼の光景、余りに印象的。
週刊読書人(一月三十日号)にて四方田犬彦氏『新潮』に連載の『ハイスクール1968』の刊行に当たり四方田氏と平井玄氏の対談あり。要は大学の全共闘東大安田講堂に見らるゝ閉塞的なる立てこもり(今で見れば引きこもりか……)戦術に陥つたのに対して新宿高校や東教大駒場等の高校生にヨリ開放的なる息吹あり……と是れも他の世代から見れば単なる自画自贊。此の対談で当時の新宿のアンダーグランド性につき語る中で四方田氏がロラン=バルトも当時、新宿を徘徊していた、と語り、バルト自身による新宿二丁目の手書き地図『表層の帝国』に掲ること挙ぐるが、興味深き四方田氏の話は氏がクロノスといふ近頃閉ぢたる酒場の主人と話したるをり此の主人曾て勤めし酒場にてバルトとフーコーがばつたり鉢合はせしたる事もあり、と。仏蘭西の当時の二大思想家が新宿の怪しげなる酒場で邂逅とはいと興味深き話。
▼久しぶりに多摩で住民運動するD君より便りあり。イラク派兵で抗議運動など忙しき。朝日夕刊コラムに河上肇が1945年8月に詠んだ短歌あり、と。
あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ
D君曰くどういう世の中になっても正気を保つことは大切、と。河上肇にあらためて興味惹かれ古本屋で買ったままの河上肇「自叙伝」読めば日本共産党員として逮捕され獄中4年。下獄後に書かれた自叙伝昭和18年6月15日に
戰爭の眞最中に自國の敗戰を希望したからといつて、それは愛國主義者でないとは限らない。一概に人がさう思ふのは、階級國家の本質を科學的に把握してゐないからのことである。資本主義國を支配してゐる主人公は、資本家階級である。ところが戰爭が始まつて事態が常態を失つて來ると、この支配階級は、餘程しつかりしてゐない限り、まるで政治能力を失つてしまつて、行き當たりばつたり、思ひつきのでたらめをやり出し、自分自身で大衆の信頼を失ふやうな羽目に陷ることがある。殊に戰爭に負けた場合には、その支配機構がすつかり弛み、民心も離叛する。かくしてそこには支配階級の自壞作用が行はれ始める。平生はとても刄向ひの出來ぬ堅固この上なきものに見えてゐた支配機構が、一撃のもとに忽ちに倒される脆いものに變質してくる。そしてそれは即ち革命の成功のため最上の時機が到來したことを意味するのである 。
革命的祖国敗北主義。今の世には、イラク侵略に参戦したいまこそ戦争を内乱に転化して革命の好機!といふ輩もおらぬか。ちなみにD君の所有するこの河上肇日記は新橋の古本市で、昭和27年発行の岩波版、保存状態良シ、岩波新書青版と同じ装丁同じ造本だが「新書」の一環で非ず、でこれが「自叙伝」4冊と「獄中記」2冊がセットでたしか1000円とは……まさに「買い」なり。今もこの日記岩波新書にあるがやはり原書で本漢字本仮名こそ。それの後書きによればこの版はすでに復刻版で原著は戦後すぐ1946年の発売。河上肇本人この年の2月に亡くなり刊行を見ず。当時大ベストセラーとなり「源氏物語を読んでいた田舎の母が、その手を休めて2日がかりで一気に読みきった」とか「共産党嫌いの老人が一読感涙にむせんで座右の書とした」とかのエピソードあり。昔の日本人は立派だったんですね、とD君。
▼『鉄道ひとつばなし』よりもう一つ逸話。駅蕎麦について。原氏がかつての駅蕎麦で70年に初めて食べたのが立川駅ホームで中村亭経営の「奥多摩そば」であることから話始まり八王子駅玉川亭の陣馬そば、我孫子駅弥生軒、そして小淵沢駅の丸政の観音そばに至る。が、その駅蕎麦が破壊されたのがJR発足であり、JR傘下のNRE(日本レストランエンタプライズ)や日食中央による寡占化始まり地方の駅蕎麦淘汰続き八王子玉川亭、神内そばも存在せず、「あじさい」「小竹林」「道中そば」「ラガール○○」と名前こそ違え系列会社による経営のグローバリゼイション。確かに逆の意味で原氏が「外れ」としていた津田沼や千葉駅の駅そばがNRE経営で以前より美味くなった事例もあるが、我孫子小淵沢が辛うじて命脈を保つ程度。ちなみに原氏が忘れ難いと綴った駅に水戸駅あり。余は小学4年の頃だかホーム毎のそば食べ比べした経験あり同じ水戸駅でも常磐線上りの6番線ホームのそばが最も美味。蕎麦食す客も常磐線下り、水郡線水戸線に比べ格段に多き常磐線上りのホームにて「意気込みが違うのでは?」などと親友と分析したもの。「天婦羅蕎麦はさすがに駅前の老舗の蕎麦屋「おかめ」には及ばぬが蕎麦だけなら「おかめ」の蕎麦とも遜色なし」などと今でいへばオヤジ小学生。ちなみに当時の常磐線、当時L特急と呼ばれた「ひたち」号の開業の頃で今はなき急行「ときわ」、水郡線に入る急行「奥久慈」、特急では東北本線の電車特急「はつかり」の浜通り版である「みちのく」、夜行では青森行き寝台客車特急「ゆうづる」に急行「十和田」と今は懐かしき列車たち。急行ときわは祖母が歌舞伎で「せっかくのお芝居に普通車なんか乗れないよ」といつもグリーン車、みちのくの食堂車、東京で深酒した父が朝帰りもできず一時間半の乗車のために寝台料金払って乗ってきたゆうづるなど様々な物語彷彿。