富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦十二月初二日(水)快晴。昼に銅鑼灣らーめん横丁にて福岡の福福なる店で豚骨汁の葱らーめん。余には聖誕前夜に出かけ聖誕祝ふほどイエス、キリストとの筋合ひ何もなく帰宅。Z嬢、タイに参った知人に大仏の写真のクリスマスカード購ふを強請り実際に一枚購入して頂き一瞥して笑ふ(写真)。表の写真は金色の大仏、開くとなかにタイ語と英語にてメリークリスマス、と。さすがタイの御仏への信仰心と大らかさ。茄子と韮の焼パイそれぞれ、南瓜、カドーリイ牧場産の無農薬野菜のサラダ。テレビのニュースによれば今晩、尖沙咀に集ふ者の数多く四十数万人とか(異教の民含む)。中環の蘭桂坊は泥酔者の大騒ぎに警戒態勢。これぢゃ「諸人こぞりて酒は来ませり」。拙宅も近所のプトテスタントの教会が屋外にて祝賀企画実施し拡声器鳴り物まで用いての騒ぎ。神への祝福は威かに謐かに安寧に行ふべきであるし、世には異教徒も多く、御仏に縋る余は基督者の彼らに信仰を強要することもければ騒音など一切の迷惑もかけず。ちなみに賛美歌112番「もろびとこぞりて」の歌詞は美しき文語。諸人挙りて、で「挙る」は「悉く集まる」意にて伊勢物語にも「舟挙りて」など用例あり。「主は来ませり」も「シュワッキィマッセェリー」とまるでアルバニア語の如く歌われ、まさか「来る」のます形「来ます」の打消し「来ません」に「り」をつけて文法的には明らかに間違いながら「神は来ない」などとは誤解されておらぬだろうが、正しくは「来る」の連用形「き」に尊敬の補助動詞「ます」の已然形「ませ」と完了の助動詞「り」の終止形が付き即ち現代語訳では「すでにお越しになつた。降臨ならせられた」。英語では“Let earth receive her King"で「神を授け給はらせよ」と口語なら言うところか。この賛美歌の文語の荘厳なる歌詞は
諸人挙りて迎へ祀れ 久しく待ちにし主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
悪魔の一夜を打ち砕きて 捕虜(とりこ)を放つと主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
この世の闇路を照らし給ふ 妙なる光の主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
萎める心の花を咲かせ 恵みの露おく主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
平和の君なる御子を迎へ 救いの主とぞ褒め称へよ 褒め称へよ 褒め 褒め称へよ
と。これだけ聖誕祝ふ者多かろうとも世界は平和からはほど遠し。米国大統領ブッシュとて敬虔なる基督者とか。ならば余は智慧乏しき彼らにこの言葉を授けむ。
我、地に平和を投ぜん爲に來れりと思ふな、平和にあらず、叛って劍を投ぜんために來れり。(マタイ傳10章34節)
神は人を祝福するが為に常に人に試練を験すものなり。