富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十二月八日(月)晴。A氏に請われ中環は粗呆区の古本中古CDレコード屋Collectableに案内するが店はワイン屋に。電話で場所尋ねれば古本といえばほとんど洋書であるこの店の店員は英語、それも「住所を教え給へ」「通りの名を告げよ」「何処にあらむ」といった問いの「アドレス」「ストリイト、ネイム」「ロケイショ」の単語すら理解できず、だが発音正しく英語にて「我は英語解せず」「何を言われるか拙者には聞き取れず」と答えるから不思議。一瞬、バカにされているのでは?と思ふほど。旺角の海賊版VCDの屋台ならまだしも中環にて名の知れた中古レコード屋でこの様。この店かなり坂を下りヴィクトリア皇后街に移転。矢野顕子『いろはにこんぺいとう』、セロニアス、モンクの“Something in Blue”とリヒテルのBeethovenピアノソナタテンペスト」とシューマンの幻想曲の三枚、いずれも前二作は徳間ジャパン、リヒテル東芝EMIのまだ包装すら破られておらぬ所謂新古品にてどういふ経路で日本の問屋?から新古品が香港にまで流れてきたのか、と。九龍で藪用ありこの三枚のみ収穫。
▼昨日のラグビー早明戦にてイラクにて殺害された奥「大使」追悼。国立競技場には半旗掲げられ黙祷あり早大選手は襟に喪章。追悼会では部長が「本当に悔しいが君の生き方を誇りに思う」と弔辞述べ監督が「僕らに今できるのは、奥さんが体をはって張って芽を出そうとしたことに花を咲かせることなんじゃないか」と語りイラクの児童への教育支援の基金づくりを提唱、と。奥氏と同期のOBは「平和になったらイラクに行き事件現場まで陸路をたどろう」と誓ふ。勿論、奥氏に外交精神あったのだろうが問題は我々が具体的に奥氏がいったいどういう任務につき何故狙われたのかを知らぬわけで奥氏が『外交フォーラム』誌に寄稿すべく用意していた原稿が奥氏の死後ノートブックごと行方不明になっていることなど客観的に奥氏殺害の事実関係もわからずにいること。イラク児童への教育支援も重要だが米国が侵略行為を続けることが原因で混乱が続くと思えば教育支援よか先ず米国の侵略行為中断させることが先。早大ラグビー部ともなればOBも各界に数多きはず。平和になったイラクを歩くことよりイラク和平活動ではなかろうか。ラグビーはスポーツでありお互いがスポーツする意思あるゆえゲーム終ればノーサイドだが、今のイラクの現状は勝手に米国がイラクの陣地に乗り込んできての狼藉ぶり、それに抗戦するのだからゲームに非ずノーサイドにできぬ難しさ。
福島県三春町での公募制教育長解任問題。公募で選ばれた教育長、町長交代で形式的に出すよう嗾された進退伺に則して本人「まさか」の解任。元埼玉大教授で義務教育を理解することや地元に住んだ経験もないことで具体的な「町の」教育改革実行への乏しさなども指摘されるが結局は県の各自治体の教育長会議の形骸化を論じたり定年間際の校長を地区の拠点校に送る形式主義を県教育委員会に直言したりが嫌われる。結局、教育は国の礎。戦後「米国が押しつけた」教育委員会の公選制が自治体警察である公安委員会とほぼ同時に国家主導の任命制になったように、佐々淳行先生ぢゃないが治安と同じく近代国家にとって教育とは国民教育であり(塾はいい意味で前近代的な知育)そういう意味で国家のなす教育に疑問を呈すような「たかだか」自治体の教育長など評価されるわけもなし。
週刊読書人の酒井隆司氏の論調(12月12日)読み応えあり。『現代思想』11月増刊号にあるサイード先生の言葉にイスラエルに対して「たくさんの怒り」は蓄積しているが「おかしなことに憎しみは私が感じることのない感情のひとつ」と答え「怒りのほうがずっと建設的です」と述べたのを受け酒井氏は「いまの日本では怒りの感情の表出をみることはあまりなく」雑誌の文章でもデモで怒りの断乎貫徹といった「振る舞いや表現そのものが抵抗する側からもさまざまに自己規制され」「あたかも怒りそのものが不当な暴力であるかのよう」に思われ「そのかわり憎しみはあちこちで目にすることができる」と。まさに「怒りの喪失と憎しみの増殖」。イラクの無差別「テロ」も北朝鮮も本来は自分自身には関係ないのだが、ただ「日本人が拉致されていた」「日本人も殺された」ことで憎しみとなる。本来は本来は独裁国家たる北朝鮮への、米国の覇権主義で戦場とされるイラクへの構造的な怒りであるべきものが単なる感情的な憎しみとなる単純さ。二つ目に酒井氏が取上げたのがクレイジーケンバンドのライブアルバム(青山246深夜族の夜)での野坂昭如先生の語り。野坂昭如の語りは暴言に聞こえるが「国家やみずからにひそむ国家的なものへの拒絶によって貫かれている」上にその怒りがユーモアになっているから、それが野坂の語りの素晴らしさ。それに対して酒井氏が挙げたのが養老先生の『バカの壁』で、このベストセラーが「日本のホームレスは糖尿に恵まれているだの、公共の福祉に牴触する個性はいらないなどといった暴言の数々に包まれて多少は面白い(か?)といえる話もついてくるという感じの、衣がやはら厚く……身体には悪い……本体がやたらと乏しいエビフライのよう」である、と『バカの壁』読みいったい養老先生は何が書きたかったのか、とこのベストセラーに悩んだ者には酒井氏の形容は余りに見事。余は山本夏彦『完本・文語文』にも同じような感想もったことを彷彿。この養老先生に見られた暴言の質は最近の右翼雑誌のそれと通底する「本質的な筋の喪失、あるいは粗雑化」がある、と。そのような暴言の質の変化とともに注視すべきは、と大塚英志「『被害者という強者』化する日本」(朝日『論座』12月号)取り上げ、「ほんの十年ほど前までは隔離された保守論断で「カルト」的なものにすぎなかった「暴論」が、いまや予想外に大衆化し、ポピュリズムを笑っていた彼ら自身(カルト的ウルトラ保守の論者のこと)がポピュリズムに翻弄されている」ほどで、それの象徴が「北朝鮮の語られ方」に代表される「みずからを「被害者」として表現する自意識の組み替え」であり、その原因は「「社会という責任体系」の消滅のなかで揺れる個が代替案として「愛国心」ぐらいしかもっていなかったことにある」と述べる。簡単に言えば、責任とれぬ幼児らしさと愛国心。……ゴロがよし、標語にできる。酒井氏は続けて、米国に見られる人種差別や暴力は多くの場合「強者の被害者化」があり、9-11以降の米国のやり口はこの人種差別の心理的カニズムを世界規模で投影させたようなもの。この米国の動向が、さすが同盟国として日本で「被害者」史観と合流してしまったこと。日本と米国が「無垢なつもりの強者」という点が合せ鏡のような存在に。「無垢なつもりで被害者意識の肥大した強者、誰しもこんな人間が身近にいたら絶対に避けたいことだろう」と(笑)。確かに。同じ『論座』で太田昌国氏が「『現在』と『過去』をつなぐ論理」で憎しみの源泉であるそうした陳腐な強者の被害者意識を断ち切り、過去と現在を歴史的につなぐ論理を見いだすためには国家批判という視点をもつべき、と。これはまさに(酒井氏が長いここ一年の論調執筆を顧みる文章のあとに最後に引用した)サイード先生の、「怒りの憎しみへの変性を回避しながら怒りをとどめ知識を武器にせよ、というメッセージなのだが、それをまるで北朝鮮拉致被害者の会を敵にまわすことでの怖れのような、イラク外交官殺害での記帳のような、結局「ひどいわねぇ」というテレビのワイド番組的な感想で憎しみで終ってしまうのが今の社会の怖さ。