富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十二月初四日(木)快晴。夕方尖沙咀の厚福街の角に焼栗の屋台・心和號あり焼き栗購う。尖沙咀にて馳名の栗売りにてこの時期美味い栗供し人気高く常時数人の待ち客あり次から次と栗は捌け数時間にてその日煎った栗売り切れれば退散。なかなか遭遇も難し。いぜん重慶大廈の裏によく在り。Citysuperにて販売する聘珍樓の栗評判だが路上にて煎る心和の栗のほうが栗ひとまわり大にて肉厚で柔らか。厚福街の唯一麺家にて搾菜肉菜麺。
▼この日剰ご覧の方で何人か昨日の佐々淳行氏の講演に参られた方もあろうところ佐々氏が日本人学校の場所を「灣仔」と述べ、現在の学校の場所ご存じの方はハッピーバレーを灣仔と述べるは間違いかと察し、詳しい方は、いや当時の創立当時の学校はハッピーバレーに非ず市街にあり、だがいずれにせよ灣仔でなく銅鑼灣、The Lee Garden向かいの現在のAIA Plazaのあたりに在ったはず、灣仔は佐々氏の間違いにかわりなし、と思うかも。佐々氏の『香港領事動乱日記』文藝春秋にも灣仔の日本人学校という記載あり。だが正確には佐々氏の言い方も正しく、六十年代当時、我々がいま銅鑼灣と云うその一角は当時は銅鑼灣に非ず。銅鑼灣は今のビクトリア公園付近、現在の中央図書館裏の銅鑼灣道から天后の電気道(其処に銅鑼灣街市)が銅鑼灣にて、現在の繁華街の銅鑼灣地区は名称もなき振興開発地区。当時、その灣仔と銅鑼灣の中間なる此処を強いて云えば灣仔か銅鑼灣かと問えば灣仔と呼ぶ者も少なからず佐々氏の表現は当時の言い方を遺したもの。ちなみに中環方面より銅鑼灣に向かうミニバスの行き先が「大丸」であるのも、今ではなぜ銅鑼灣とせぬのか?と思うが、当時、大丸百貨店が開店したころのこの地区は銅鑼灣とは呼ばれていなかったから、が事実。僅か三四十年で地名すら移ることの面白さ。