富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十二月初二日(火)快晴。ふと最近思い出すは、もう時効だからいいだろうが、七年ほど前だったか香港に駐在の東証一部上場の某大企業の課長クラスの御仁「いまの地球は壊滅的危機的状況に陥っておるのに日本人は誰もそれを感じておらず、このままではマズい」と、せめて香港に住む日本人へそれを伝えるべく、某所に日本人聚まるようにといくつかの団体に告知し、その会場へと向かい会社飛び出すが、会社側その御仁の神経衰弱の兆候に気づいており、この緊急集会開催が外部からの通報で会社にわかり、さふいへばさっき飛び出して行った!と他の駐在員が仕事中断してこの御仁をば追いかけ会場へと向かう駅のホームにてこの方を保護、この方は帰国のうえ養生されたといふが、当時、笑って聞いていた話が、今となってみれば確かに危機的状況に近づいているといふ認識に間違いはなし、か。その方はいまどうしていることか。晩にこの冬?初めてのチゲ鍋。OB麦酒飲み真露少々。日経香港版の日経Galleryの原稿書く。原稿書くのだけは速筆。ニュース見れば行政長官董建華キャセイ航空の北京航路再開第一号便に乗り北京に統一区議会選後の陳述のため上京。十一年前だかに当時は保守派といえば親英派であった香港で返還後の保守のために親中派の組合だの中国ビジネスで逆らえぬ財界、それに地域団体束ね御用政党たる民建聯作ってもらい乍らすっかり市民に愛想尽かされ今回の区議選での敗北。それをどう陳述するのか。夜のニュースで現場中継入り何かと思えばその民建聯にて党首曽玉成君今晩の党中委にて曽君の辞表受理され党首辞任、と。民意で世の中動くだけ日本よりマシか。いや、だが石原君選んだのも小泉支持率も民意は民意。福田赳夫ぢゃないが民意にもヘンな民意がある、といふことか。
▼畏友William登β達智君が信報の随筆でさらりと苦言呈すは成田に着き折からの大雨で成田エクスプレス不通、空港駅で途惑う外国人旅行者に英語での放送も電光掲示板での案内もなく真っ当に理由説明できる職員もおらず旅行者は列車不通の不便に対する苦情でなく、何ら情報すら与えられぬことに不安と苛立ち、と。それがどれだけ拙いことなのか当の日本で理解できておらず。イラク派兵だの教育基本法改正などどうでもいいから真っ当な英語教育を行うこと。一気に二年くらい日本語禁止令布告とか如何だろうか。日本語使えぬからイラク派兵だの教育基本法改正など国会で審議もできず、嘘っぽいナショナリズムも語られず、銀行や産業界など日本語使えぬ停滞に英語使い手の優秀なる技術者など雇用せざるを得ず一気に国際化加速。二年も日本語使わねば、わが言葉の尊さに気づき真の愛おしみなるものは国家などでなくこの文化、社会であることを痛感とか。
▼朝日にとって引退しても「最期の佐け」は宮沢喜一イラクでの日本人外交官殺害につき喜一君にかなりの紙面使ったインタビュー掲載。八旬の老人は日本リベラリズムの神様の如き扱いながら、なんだかんだいって所詮自民党で悪輩と同居できた身、言葉の節々に真っ当なようでいて自民党支える屋台骨精神散見され、例えば外交官殺害も「国の決断によってああいう結果になったことは、政治が無関係とは言えない出来事だ」と、一見とても良識的だが「この結果はまさに政治が関係している」のが事実であり、日本の米国追従といふ誤断が原因。うまくオブラートにくるんだ表現で自民党政治の汚点をきれいに見せるのが自民党保守本流の本流たる所以か。また「国会がイラク特措法を通して、小泉さんがそれを実行に移そうとするのはやむを得ない」というようなコメントも、喜一君が言うと「そんなものか」と瞞される読者も少なかろうが、これも一瞬、議会制民主主義と議員内閣制で国会の決定に首相が従う、といふ非常に正常なことのようでいて、村山富市君が自民党主導の国会での決定を実は内心抵みつつ実行するならまだしも、小泉三世はイラク特措法の立法化のご本人なのだから、それを安定与党で国会通して実行することの、どこが「やむを得ない」のだろうか。もはや鵺の如き喜一君をご神託の如く用いる朝日も朝日。
▼先日の産経の社説でイラクフセイン君について「大量破壊兵器はまだ発見されていないが、それを持つ意思があったことは確実だった」というだけで罪ならムラムラとしただけで強姦罪覚醒剤ってどんなに気持ちいいのだろうと想像しただけで麻薬取締法違反になってしまふ、と冗談めかして書いたが多摩のD君曰くマジで「共謀罪」といいうのが新設されようとしてようとしており「共謀の事実」を証明しなくても「共謀する意思があった」とみなすだけで立件も可、と。ついに脳内のできごとにまで司直が介入の時代。
産経新聞が間違ったのか高松宮殿下記念世界文化賞授賞したケン、ローチ監督の受賞前日の記者懇談会の発言が週刊読書人(11月28日号)にあり。司会者まず“September 11”撮った監督に「アメリカについて非常に辛辣なとらえ方をしているがアメリカについてどう思うか」そして「ハリウッド映画について」と質問。監督は「アメリカ政府は必要があれば世界中のいかなる場所であっても、またアメリカという国の経済力をもって牛耳るためであれば、いつでもテロルに対する戦争を講じる構え」があり「アメリカの戦っている戦争は戦争地域においてアメリカの経済、政治的な力を確立するためのもの」と。だから「日本のような国が立ち上がって、この帝国主義的な戦いを止める必要がある」し「日本という国の中には、平和主義というものが埋め込まれており、そういった国にいるのは非常に幸運なこと」と監督は思う、と。静聴に値す。ここで司会が「ハリウッド映画については?」と再度の質問に「個人的にはあまり見ない」と(笑)。「どちらかというとサッカーのほうが好きですね。サッカーはどういうふうに終わるのか、最後まで試合を見ないとわかりませんから」と強烈な皮肉。ここから司会はまた“September 11”に牴れローチ監督の制作部分が米国で上映されなかったことについて監督は「9-11の数ヶ月前にパウエル国務長官もライス補佐官もイラク大量破壊兵器は存在しない、国の再建の必要性も今すぐにあるわけではない、と発言しており、明らかに米国の意図的な画策が見えるのであり、これについては世界的な反戦運動が起こっており、それの継続が大切、と監督。ここから暫く映画談義となるが、司会が「さまざまな監督が日本という課題に取り組んでいるが?」と愚問。監督は「今回は観光客として来ているだけ」とニベもなし。だが司会が「受賞の賞金の一部を日本の団体に寄付されたとか?」と振ると監督は労働者の不当解雇の問題について語り始め国有鉄道民営化での労組組合員の不当解雇について語る。これについてはこの日剰でもすでに紹介したが、産経新聞の賞金をば旧国鉄労組の組合員不当解雇の支援団体に寄付という監督の英断と快挙。司会はまた映画の話題に戻し洋画の多くがハリウッド映画という状況について質すと監督はハリウッド映画にはアメリカのプログラムが組み込まれており、本来映画はあらゆる異なったアイデンティティがそれぞれの文化で表現するものであるべき、それが自由市場という名のもとにハリウッド映画に象徴される作品がグローバリズムの結果、自由社会の自由市場を寡占化し多様性を破壊することの危険性を述べる。この監督の非常に欧州的なリベラリズムをこうして読むにつけ、産経新聞のローチ監督への世界文化賞授賞を改めて義挙と賞めるべきと痛感。
▼……と産経を褒めたら築地のH君より今日の産経「正論」で森本敏・拓大教授が「そもそも米国のイラク戦争には大義がなく、従って自衛隊イラク派権にも大義がないので反対……という議論がある。しかし、戦争の大義があろうとなかろうと、イラクの復興人道支援は奥参事官、井ノ上書記官が生命をかけて努力してきた偉業であり、われわれはこれを何としても成し遂げなければならない」と。一読して何を言っているのかわからぬが、要は「大義はなくていい。大義がなくても一生懸命やったんだから、それが大事」という主張。H君曰くアルカイダだってフセインだって一生懸命、歌舞伎町のぼったくりバーも中国人のピッキング窃盗団もみんな一生懸命に変わりはなし。H君、理解するは、中国への侵略戦争も朝鮮の植民地支配も「正しい!日本は悪くない!」といってる人たちって、大義とかは二の次、大義がないことはむしろ自分がよく知っており、だが大切なことは「みんな命がけで一生懸命やってたんだから」批判してはならない、という論理?。こうして考えると「おかしい、ってことはわかっている。が皆が一生懸命にやっていることに釘を刺すな」という発想。見方を変えれば「みんなが」といふ偉大なるヒューマニズムが其処にあり。
▼東京都民は大変、昨日は天然痘テロを想定した訓練。ご苦労様。あんなの知事にした結果がこれ。だがテロの時代にこういった訓練は必要、とSARSなどのことなど自分は被害もなかったのに真摯に思い出して(本当はSARSに怯えていたことしか思い出せぬのだが)一生懸命に訓練に参加などしてしまっている都民も多かろう。じつは自宅は我孫子で都民ぢゃないのに会社が芝でこれに参加させられた千葉県民もとんだ迷惑か。実は、都知事が起こしたクーデターの避難訓練でもしたほうが現実的ぢゃなかろうか。その都知事イラクへの自衛隊派遣について触れ(朝日)「平和目的で行った自衛隊がもし攻撃されるなら堂々と反撃して殱滅したらいい」と述べ「テロがこれだけ蔓延していく国際情勢の中で、日本がその発信源の最たるものの一つであるイラクの再建に、テロ防止も含めて力を貸すのは当然」であり自衛隊は「無秩序だけを標榜するテロが攻撃を加えてきたら、反撃して殱滅するのが軍隊ではないか」などと発言。H君曰く小林よしのりですら発想の基本には「一生懸命がんばったご先祖に申し訳ない」といった感情的動機あるのに対して都知事の場合、一生懸命さを是とするが如き感覚もなし。日本人は日本人だから偉いんだぞ!強いんだぞ!っと怒鳴りちらしてるだけの幼児性。彼の書いた小説も、一人称の俺様が威張ってるけど、登場人物、とくに女性の内面まったく描かておらぬ……そうだが読んだことない、のが事実(笑)。戦争体験といっても海軍高官子弟の多き湘南中学で軍事教練すら受けず焼け野原を爆撃から逃げ回り焼けこげた死体に接したわけでもなく、処女作『灰色の教室』も芥川賞太陽の季節』も弟・裕次郎の放蕩生活描いただけで、ふと思ったことは石原君よりも、その小説に描かれた世界に価値を見いだし評価してしまった戦後こそが、実は戦後の間違いは憲法にも教育基本法にも問題があるのではなく、あの何の思慮もなき放蕩生活、間違った自由の謳歌に価値を与えたことこそ戦後の最大の誤謬ではなかろうか。裕次郎に憧れたことの誤算。その結果が裕次郎亡くなっても遺産の如き西部警察、思考性もなくただ大掛りなだけ、撮影現場で事故起こしても「土下座したことはここで……」などとマイクの前でひそひそ話といふ下手な芝居の渡哲也、だがそれに対してその渡哲也の下手な芝居に感動し裕次郎の事務所の灯を消すなと放送再開に熱き声援。その声援と石原慎太郎への300万都民の支持には同じメンタリティあり。戦後のその『太陽の季節』に描かれた馬鹿さ加減を維持してきた社会にとって、それを否定してしまふことこそアイデンティティの崩壊につながる由、石原慎太郎に強さ見出すことでどうにか体裁をば維持する戦後日本。若者までが何も知らぬはずが靖国神社参拝する都知事に「石原!」と声援送るも、その子らがまさに戦後のそのいい加減なる石原的な個人主義自由主義をば享受した親の子であるから、と思えば理解できなくもなし。