富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十月廿四日(金)晴。夕に太古城。Cityplazaも平日のこの時間は閑散、音響製品Boseのヘッドフォン欲すがBose?の直営店あるべき場所に萬寧商店あり。購買の機を逸す。香港図書公司の大きな店ありペンギン版でFitzgeraldの“The Great Gatsby”とJoyceの短編集“Dubliners”の二冊購うがいったい何時読めるのか皆目見当もつかず。晩餐時間で店開けたばかりの西苑にてZ嬢と待ち合せ。真面目な接客態度に敬服。蛇羹、叉焼、四季豆を食す。歩いて香港電影資料館。中国電影展。『荷香』(監督は戚健、03年福建)鑑賞。福建省の茶の産地武夷が舞台。農家に嫁いた若い女が旦那を事故で亡くし力強く生きてゆく筋は平凡ながら、何よりも見ていて感じ入ることは、中国映画で農村を舞台にすること=貧困であったのが、この映画では温暖な気候と山間とはいえ適度な雨に恵まれた耕地で稲作と有名な武夷の茶の生産をする農家はけして裕福ではないが茶の乾燥から焙煎まで出来る庭付きの小綺麗な自宅を有しカネの工面といっても数千元、数万元という単位という豊かさ。福建の武夷が舞台なら流暢な北京語でなく福建の言葉ならもっといいのに。続けて『美麗的大脚』(監督は楊亜州、02年西安)見る。これも粗筋見れば北京の若い教師が三年も雨が降らず黄河上流の川が干上がった黄土の貧困なる辺疆にて小さな小学校の女教師と純朴な子どもらに出遇うといふ「ありがち」な物質文明への懐疑と革命精神見直しなのだが、どんな辺疆の黄土の村とてある社会のどろどろした裏話も盛り込み、ヒトの業きちんと描いた点では単なる党のためのプロパガンダ映画には陥らず。何より西安電影制作廠らしく上手い役者を集め特に地元の女教師役の倪萍が北京から来た美人教師役の袁泉相手に藤山直美に似た熱演。『荷香』が温暖な気候と水に恵まれた福建、『美麗的大脚』は厳しい風土で一滴の水すら無駄に出来ぬ西疆の地と偶然とはいへ中国の対照的な風土舞台にした映画が続けて上映される面白さ。
蘋果日報の陶傑氏の連載隨筆今日も炸けむばかりの冱え。「愛情と麺包(愛とパン)」といふ題にて中国の有人宇宙飛行につき未だ飢える民あり教育受けられぬ子のいる国家(つまり中国)が百億の多額の資金費やし宇宙ロケット飛ばすことの可否を問うは感情論と。情緒にまつわる問題には正解などなくそれ故に愛は盲目。同じく民族主義も盲目ゆえ国家が「原子核が要る、ズボンは要らぬ」(漢文にては「要核子、不要庫子」と韻を踏む、「庫」は正確には衣偏あり)と言えば異議も唱えぬのは感情と理性が異なる故。生物学者が「白髪三千丈」に異を唱え論文書いても無駄ということ。歴史をみれば北京の頤和園とて西太后が海軍の軍艦建造費を用いて庭園築いたと非難されもしたが、これの是非を考えれば西太后に非があるかどうか。今では頤和園は北京の重要な史蹟庭園となり多くの観光客集めるが、軍艦建造したところで官吏の汚職生じ日本海軍に沈められるばかり。それゆえ今日「国家が窮する時に宇宙ロケット開発の可否」など問うのは愚鈍。16歳の子の弁論大会じゃないのだから、愛情とパンとどちらが大切かなど問うべからず。貧しい男女が恋愛中に結婚や将来の夢語らい子どもは五人欲しいと語ったら、当然それに余計な口出しなど要らず、ただ笑って「お幸せに」と言うもの、と陶傑氏。この中国の有人飛行だけでもまず中国の権威主義を嗤い、宇宙飛行士は美男子であるべきとマーケティングを分析し、そして今回はこれ。立派。