富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月十九日(金)晴。晩に日本人倶楽部にて香港研究会あり郷土歴史家のK氏による戦後の香港公団住宅史の発表ありK氏には香港日本人史の史料編纂にても協力頂きたき事もありここ数年はS女史と中文大学にて経営学教鞭とられるM教授の主宰される香港研究会にかなり久々に参加。かねがね疑問に思ふは戦後の所謂「難民アパート」と呼ばれし急拵えの公営住宅のうち初期の団地がいまだ健在するのに対し次世代型の60年代の団地建物が現存せぬこと。K氏の説明により当時深刻な水不足あり住宅建設のセメントに海水!多く用いられ当然のこと乍らセメントの耐久著しく悪しければ90年頃にはすでに解体と。納得。Shau Kei Wanあたりの水上住宅だの西河湾の現在輿東邨や耀東邨となった丘陵の罹災者住宅など貴重な写真資料の数々。大埔は元州の水上家屋の話でRTHKのドラマ「元州仔之子」について述べられ香港映画祭で見た映像思い出すばかり。終わってK氏に香港ポストS編集長と一緒にご挨拶。M教授とも一度お話したきところ余はZ嬢と中環にて約あり倶楽部食堂での会食に参加せず。Z嬢(あとでわかった事だが)香港研究会と聞き開催場所をてっきり中環の明愛中心(カリタスハウス)と思いこみ余との待ち合せ中環とした次第。明愛中心での香研など十年以上前のことにて余が当時の朝日新聞特派員のT氏に誘われ参加したが最初、中文大にて日本経済教えるC女史が会を主宰されていた頃のこと。Z嬢と外国人記者倶楽部のメインバーにて晩餐。ギネスの生麦酒、カエザルサラダのアスパラガス添えとフィッシュ&チップス。単純な料理だが尖沙咀の某インターコンチの呆れる粗食と比べれば此処は明らかに優る。折角なのだから地下のBart'sにてジャズの生演奏も誘わるるがこの一週間の余りの疲れに勢いなく車雇ひ帰宅。
▼築地のH君より。昨夕の毎日新聞夕刊に松本健一石原慎太郎について記たる「転換期の危ういポピュリズム 小さなうちに刈り取るべきテロの芽」といふ文章あり。石原慎太郎自身が「テロの芽」といふ趣旨。締めの一文は「北朝鮮による日本人拉致という国家テロを糾弾する国民が「爆弾テロ」……それがどんなに小さなものであれ―肯定してはならないのである。」だそうな。至極真っ当、真っ当過ぎて面白くないくらいだ、とH君。「松本健一といえばかつて北一輝や2.26の青年将校への屈折したシンパシーを左翼っぽい衒学的な文体で語るのを売りにしていたはずだが」時代が右にズレすぎてしまふなかで松本氏の位置も微妙に彷徨うのだが、いずれにせよこの石原批判する「ここでの松本健一はハッキリと戦後民主主義的秩序の擁護者として登場しております」と。「右翼の口吻を借りて書いているうちに本当に右翼になってしまった」とか評されもする松本先生の出発点は「やはり70年代の土着・情念を前面に出した新左翼のスタイルであった」(H君)のは確か。しかも丸山真男の自称愛弟子では確かにもうグチャグチャ、なり。どうであれH君の指摘通り松本先生であるとか大塚英志氏も「諸君」に書くライターとしてはこの頃は貴重な「戦後民主主義者」であり、文春にかける左派?といふ存在は真物の左派よかもっと重要かもしれぬ。ところでそのテロ発言の石原慎太郎君何のお咎めもなきまま。言葉のアヤであれテロ肯定ととれる発言する政治家が問責されぬとは。H君によればあまつさえ慎太郎、敬老の日に何食わぬ顔で100歳の老嬢を表敬訪問とか。「人類の文化が生んだ最も悪しき産物がババア」といふ自らの発言に背く行為にも見えるが、ようは石原の嫌ふは「市民」を演じるオバサンたちであり、それに対して市民を演じぬ老婆は石原にとっては戦争だの貧困だのの厳しき時代を生き抜きし敬愛の対象としての母といふわけか。