富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月九日(火)晴。顔の焼け爛れどうにか落ち着くが今度は皮剥けて惨憺なる様。夕方にジムにて鍛錬。日刊ベリタに今後の香港政局の記事送稿。I氏より頂いた四川省産の松茸で松茸ご飯。菊正宗飲む。楽天にてNANDEMO POWER-2なる飛行機内にてPC使用するための電源装置注文。なぜかこの製品のみSharpのPC対応。村上先生&柴田先生の『サリンジャー戦記』読了。『ライ麦』の主人公であるホールデン少年に対して「彼は社会階級的に見ても、やたら狭い、あえて言うなら特殊な世界に属している。彼が懸命に移動する範囲も、マンハッタンの中の、すごく限定された場所です。『キャッチャー』というのは、この小さなエリアの中にピンポイントで設定されることによって、有効に成立している小説なんです。この上下左右のボーダーが取れちゃったら、おそらくこの本の小説的リアリティは失われてしまうんじゃないか」と言いたい放題。「それを言ったらお終いよぉ」で、それを言ったら村上作品だってみんなそうではないか。だから何なの?という感じだが、結局、柴田先生との対談は、さんざん言いたいことを言った挙句、編集部の職員に「それって、アントリーニ先生が言ってることと同じじゃないですか(笑)」と揶揄されるのだが「この本についていちばん素晴らしいのは、そういうまだ足場のない、相対的な世界の中で生き惑っている人に、その多くは若い人たちなんだけど、自分は孤独ではないんだろう、ものすごい共感を与えることができるということなんですね」と村上先生。「この本をほめるのって、なかなかむずかしい」し「あれこれ文句をつけるのは簡単」だが「それにもかかわらず、だれがなんと言おうと、『キャッチャー』というのははっきりとした力を持った、素晴らしい小説なんです。五十年以上、どんなに消費されても、輝きを失わずに生き残っているんです。それはほんとうに素晴らしいことですねよね。小説の力というものをまざまざと見せつけられます。僕がいいたいのは、結局それだけなんだけど」と、えっ?というほどアッケラカンとこれで対談は終わってしまう。ちなみに対談のタイトルは「『キャッチャー』は謎に満ちている」(笑)だ。それでこの結論。これが雑誌に掲載されている対談なら読み捨てでいいのだが、新書でわざわざ期待して買ったら、これが結論じゃ怒るだろう。否、村上先生を信奉する読者ならこんなことで怒らないか……。で、この『戦記』の白眉は村上版『キャッチャー』に掲載予定のはずが白水社サリンジャーとの原版契約で「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」といふ文言あり、掲載見送った村上先生による「訳者解説」である。サリンジャーや主人公のホールデン少年なら「だから訳者解説なんて載せないでほしい、って言ったんだよ」と嘆きたくほど無惨な解説。とにかくサリンジャーの生い立ちから性癖、精神に異常来した事までを、これでもか、といふほど綴る。新書で38頁、加筆されているといふが、それでも白水社がとにかくこの村上訳と訳者解説で『ライ麦』を売ろうとしていたことが明らか。最悪なのは、その解説の中で1980年にジョン=レノンを狙撃したチャップマン青年がJLを射殺したあと警官が現場に到着するまで「舗道の敷石に座って『キャッチャー』を読んでいた」という有名な話だが、それや翌81年にレーガン大統領を狙撃した青年の所持品にやはりぼろぼろになった『キャッチャー』があったことまで村上先生は解説で供述。常識的に考えて『ライ麦』を読んだ直後、解説でこのような“事実”を提示されてどうだろうか。余にとっては最悪の読み心地。そんなのを読まされるよか、サリンジャーの世界に耽っていたいはず。訳者解説がなかったことは幸い。あまりにも非道い解説。この『戦記』には更に柴田先生の“Call Me Holden”なる一文があるが、野崎訳のホールデンの口調を真似たような文体で、これは論外、米現代文学の蘊蓄。結局、総じて、この『戦記』は読むに値せず、と痛感し複雑な安堵感なり。
▼多摩のD君によると野中広務先生今期限りで引退表明。記者会見では「退路を断って小泉内閣を否定するたたかいに全力を尽くす」と宣言。亀井静香チャンも総裁選出馬第一声で「国民を苦しめる小泉政権を終わらせる」と。静香チャンは尊敬する人が大塩平八郎チェ・ゲバラだそうで「貧しい民衆のために闘った人だから」とは立派。だが何が不思議かといえば何故、ここまで小泉を否定する先生方がこれを総裁に据えて一党を形成していられるのか。自民党なる政党の強さといへば強さだがインチキぶりといへばインチキぶり。小泉続投となった暁には野中、亀井の両先生には是非袂をわけて自民党から離党するぐらいの氣概を是非期待したいもの。
▼videonews.comの宮台&神保の○激 Talk on Dimandにて香山リカ精神科医)と山口二郎(北大教授)ゲストに迎えたナショナリズム談義あり傍聴。この10年くらいで他者を否定することで自己肯定をする風潮あり、これが他者への非寛容となり、それが国家レベルとなるとナショナリズムになる、とリカちゃん。山口教授は同じ10年というtermでとらえ自民党長期政権が瓦解し細川護煕が首相になってちょうど10年。この十年で何が進歩したのか?と考えると市民運動での積極的な動きなどを除けば何も進歩しておらず、と。錦の御旗となった「国益」という言葉が「積極的に」とか「正々堂々と」といった副詞とともにさも大きく語られる現実。だがそうった言葉宣う人にかぎってインチキ多し。
▼長崎の少年犯罪にて少年の親を「市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」と発言したことで「男を上げた」防災担当兼構造改革特区担当兼青少年育成推進本部担当大臣の鴻池祥肇君、今度は政府の途上国援助(ODA)について「中国へあれだけ金を送っている。それで感謝していない。靖国神社にお参りしたら文句を言う。そんな国にODA(を拠出するの)はもういっぺん見直さなければならないのではないか」と。本人らにとっては正論(笑)。鴻池君は「ODAの使われかたについて検証が必要という趣旨での発言だった」と弁明したが、どうせなら「それが中国に対して抱く我々日本人の本音だ、『国益を犠牲にしてまで』の中国援助に……」とでも宣えばよし。それが言えず弁明に終始するのなら最初から言わぬこと。
▼朝日に香港競馬で観光復活?なる記事あり。大陸からの旅行者にとって香港競馬も観光の目玉、という当たり障りない記事だが、実際には先週土曜日の開催は馬劵発売額が過去7年で最低を記録。そういったことは一切触れず。ジョッキークラブの暗澹もこの記事からは読めず。

以下、ここ数日の備忘録。
基本法委員会委員で香港大法律学院教授の陳広毅博士指摘するに、政府は23条立法にて少なからず改訂し、それが国連の人権公約に合致すれば次の立法年度(今月より)での立法化は可能であったのであり、それを無期限延期することは政治的考慮以外の何ものでもない、と指摘。陳博士は政府が白紙草案をもって市民に諮詢することを期待。
▼そうそう、先週土曜日はL氏の披露宴であったが、同じ晩にY氏よりI氏四川省より初物の松茸持参して帰港ゆえの松茸宴に誘われたり。赴けぬ無念。歌を詠む。ちなみに楽景園はY氏邸の在処。
來る秋のかほりほのかにたゆたふる
楽し景(けしき)の園をとぞおもふ
産経抄、筆者の石井先生、往年の産経記者にて、多摩のD君によれば「デスクは言うに及ばず、現社長以下全て「小僧ッ子」扱い」といふほどの御仁。「これでは近年の破綻ぶりも誰も制御できないのは当然」でお年めされ「人権憎し、平和憎し、ジェンダーフリー憎しの「虚仮の一念」固まったか」と。「もう誰にも止められない……今後症状がさらに進行したときどうなるか、見もの」とD君。紀伊國屋書店まで単行本となった『産経抄』を「過激だが心優しい、日本最高のコラム集」と紹介。D君この「産経一面のオアシス」といふ紹介見て曰く、産経抄の論調は一面のオアシスどころか「産経ってぜんぶこの調子」(笑)、いやもしかすると「一面の」って意味が違い「産経紙上は一面見渡す限りオアシスが広がっていますよ」ということか?、と。往時の如く広大な「戦後民主主義砂漠」が横たわっている中で産経新聞がオアシスとして存在する、といふのならまだわかる。それなら今ではマスコミの総保守化、無節操化でオアシスばかり、ついに砂漠の緑地化達成か(笑)。それにしてもこうして余や畏友らが産経新聞を取り上げても誰も読んでおらぬのが事実。「何、その産経抄って?」である。つまり産経は反産経的なる者に読まれているだけ。そういった反産経者にとっては確かに心のオアシスかもしれぬ(笑)。