富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2003-08-30

八月卅日(土)天晴れ。Mount Parkerへと小径を上がり大譚へと下る。普段なら大譚水塘より大譚引水路に入るのだが数日前までの霪雨に水塘は水が満ち堪ふ状見事にて(写真)珍しく中・水塘(Intermediate Reservoir)まで下れば水塘の壁面を水がさらさらと流れ落ち疎水の底には吾れ独り、青き空に水音だけが響き須臾見惚れつ(写真)。南岸の海岸にて読書。『世界』にて映画「スパイ・ゾルゲ」完成させた篠田正浩監督と立花隆の対談あり、尾崎秀実がなぜ「ひでみ」でなく「ほつみ」なのか若い頃ふと疑問に思ったが、これは古代の秀真(ほつま)文字に由来あり、この神代文字により書かれたる随神(かむながら)の道なる皇国思想に平田神学の学徒であつた秀実の父秀太郎熱狂し息子を秀実と名付けた、と。納得。その「秀真神道の熱狂的国粋主義を背負って尾崎秀実は人生をスタートさせた」のち共産主義のコミュンテルン活動に従事し検挙され転向する面白さ。この世界の特集「日本現代史をどう描くか」は他にも『歴史としての戦後日本』の著者アンドリュー・ゴードンと中村正則、また『ねじ曲げられた桜』の著者大貫恵美子(Wisconsin大学)と色川大吉との対談、『昭和天皇』でPulitzer賞とったHerbert P Bixによる自書への松本健一秦郁彦らによる反論(週刊朝日2003年1月24日号)への再反論、『敗北を抱きしめて』のJohn Dowerの文章など「岩波的に」かなりの充実。それに続く連続討論の「戦後責任」の最終回「中国への責任」が山口淑子の「李香蘭の日々を顧みて」は一読には値するが、これと本多勝一センセイの「『中国の旅』をなぜ書いたか」のinterview二本でこの連続討論を終りにしてしまふのは安易すぎやしせぬか。久が原のT君よりいただいた戸板康二の『折口信夫座談』少し読む。戦時中、結局、折口先生が何もできぬ(或は「せぬ」)ままでいた事実、これがまさに軽井沢で哲学に弄んでいた加藤周一らと同じだが疎開せず戦火にあっただけ折口の覚悟ありかも知れぬが、いずれにせよ知識人がこうしてただ「終」戦待っていた事実。夕方ジムに寄り帰宅すると郵便函に週刊読書人届いており、偶然にもその戦後責任だの戦時中無抵抗だった知識人の姿といふ問題に応じるかのように『八・一五革命伝説』上梓せし松本健一(いつもの「いかにも」の姿勢なのは言ふに及ばぬ)が、この虚構性について述べている。まだ読んでおらぬが松本健一なら何を言ふかはだいたい理解もできよう。黄昏に近隣のO君来宅しZ嬢と来週末の走行会の行楽行事の打合せ。余が麦酒控えているも知らずにO君しかも恵比寿麦酒など持参されついつい一缶いただく。なんと美味なことか。Z嬢の揚げたコロッケ食す。NHK特集にて「大王陵古代埴輪群発掘」なる番組観る。継体天皇陵と謂われる古墳から出た埴輪群より当時の大和朝廷の政治体の様を探る。大陸の、殊に騎馬民族の影響がかなりあり、穢れや大地の魑魅を追い払ふが為に相撲取が四股を踏むのとて当然のことながら蒙古伝来であろうし、そう思えば横綱筆頭に蒙古勢が角界に繁るのは当然、この埴輪群、継体天皇から実子への皇位継承表すという説もあり、高床式の宮殿にて大嘗祀にあたる神事挙はれていたと思うと1500年を歴て其れが今でも宮中でほぼ同じ形で遺っているのが天皇制の醍醐味か。明日、香港競馬開幕、予想少しして深夜『折口信夫座談』少し読む。