富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月三日(木)快晴。50万人デモあって政界の動向はといえば董建華は世間にはダンマリを決め込み連日行政会議(Executive Council)を開催。結局のところ今さら退歩もできぬがこのまま来週水曜日からの現行での継続審議続ければ世論の反発更に大きくなるのは必至、とくに23條立法断固可決であったはずの御用政党民建聯がこのままでは立法会の次回選挙にて失票甚だしきことは明白にて23條立法のうち殊に反発多きマスコミの国家安全にかかわる国家機密情報の非法入手に対する条項(独自取材の制限と言論自由の制限)など「公共の利益のため」の情報取得などは不問とするなど修正の余地ありの如きこと宣ひ始め、同じ与党自由党は地方区に立脚せぬ職種別選挙枠のため民意に敏感になる必要なきところやはり23條立法に懸念蔓延れば各業界の意見を諮る向きあり、立法会議員(金融界選出)で東亜銀行頭取の李Baby國寶も銀行各行に諮問の上態度決定とそれまでの23條立法支持から態度軟化した上にデモ参加者は保安局長葉劉淑儀が「デモ参加は余暇レジャー活動」には非ず政府は市民の意見を聞くべきであり首相温家寶も深センにてこのデモの様子は映像で見て状況を理解しているはずでデモ当日に意図的にデモ集合場所を親中団体に貸与したことは市民反発喰らい葉局長のまずい態度と表現が寧ろデモ参加者を増やしたと非難。信報社説は来週水曜の強行審議はせっかく平和裡に終わったデモでの民意を加熱させ政府不信と状況の悪化に繋がるもので現状では審議延期しか政府のとる手段なし、と。
▼朝日の広告で白水社村上春樹ライ麦』絶贊の広告あり。読者の声で
「こんな話だったのか」と正直鳥肌が立ちました
というのがあり爆笑。誉めているようだが中森明夫的に読めば「こんなひどい話だったのか」と唖然として鳥肌が立った、と。
▼武蔵野にて市民運動するD君の話ではD君らの主宰する反戦デモは50人だそうな。数十万人規模のデモなど日本ではもう何十年も絶えて久しく頑張っても数万人。そのデモ隊列が1車線に規制されてしまい「大通りを埋め尽くす大群衆」という事態は絶対に「見えない」と。同じ参加人数のデモでも「通りを埋め尽くす」と「細い列」ではインパクトが違うわけで日本でのデモ規制はそういった官憲側の抑制がされている、ということ。それにしても中共支配下にある香港ですら可能な表現行為が日本という「高度に発達した資本主義国」ではありえない、とは、まさに日本の国辱!、とD君。ちなみに昨日の朝日、東京版では「50万人デモ 香港大荒れ」ではなかったそうな。
▼築地のH君よりサイード先生の『戦争とプロパガンダ』4冊目刊行と報せあり。「裏切られた民主主義」というあまりにナイーブな邦題がトロツキーのパロディ?と思うようなのもH君ならではの素養だが、そもそもこのサイード先生の文章、ガーディアンであるとかAl-Ahramといった新聞に精力的に寄稿しているもので新聞社もセコいこといわずサイトにて公開。本来、それを刊行する必要ないのだが「日本だから」翻訳され刊行されている事実。サイード先生にしみてみれば印税も入るわけでけっこうなことか。だがサイード先生のこの文章を読まなければならない者は中東でもアフリカでも中国でも(北朝鮮はどうか知らぬが)サイトで英文で読んでいるわけで、寧ろ碩学イード先生が英語はnativeに非ず「ぎこちない」英文で書いてそれを英語圈とrest of the Worldで読まれていることが、日本語の翻訳を読んでいてはそのいちばん大切なことが理解できない。それにしてもサイード先生大全とでもいうべきすごいサイトもあり(こちら)日本の凄さ。ここで読んでいても、やはり上梓されると本を買ってしまう、という知的行動の様式もH君に言わせれば我々が最後かも、と。久が原のT君も荷風、鴎外に露伴の全集を揃え、もうそれに囲まれてあとは何も要らぬ、と。あと少しすれば単なる読書が我々でいえば先達が「漢籍の素養がある」というくらいの凄いことになてしまうかも。
▼ところでH君に50万人デモでの警察の話をしていて、そういえば香港にいる(いた)シーク教徒インド人の警官であるとかどうしたのですか?と質問受ける。このシーク警官であるとかネパール系のグルカ兵であるとか国籍とかどうなったのか?と。仕事はその多くが民間警備会社に移っているが、国籍は故郷のインドには親の代までで本人の国籍などなく中国籍を得ることもなく、つまり国籍が「ない」者も少なからず。但し香港に生まれ永住権があり旅券も英国政府が出している英国海外旅券を有せば渡航には支障ないわけで、つまり戦争にでもならぬかぎり一般生活では国籍はなくても平気なのも事実、と答えると、H君曰く日本にいるとその感覚がリアルにわからぬ、と。どうしても人権を保護する主体は国家であり、国家に属しない(=国籍をもたない)人間は人権擁護の対象になりえないというかのような考察が日本には蔓延。だから国家が必要である、という修辞がそこに成立する。だが当然の如く「国籍と人権というのは成り立ちからして直接は関係してない概念」なわけで、だが日本国憲法を「和訳」するときに「people」を「人民」でも「民衆」でも「人びと」でもなく「国民」と誤訳(もしくは巧妙な修正)したことも大きな責任があるか、とH君。まさに。日本国憲法の立法精神からいえば、日本国家の主権の及ぶ範囲内では「すべての人々」が人権保障の対象となっているはず、と。御意。それが結局、日本「国民」それどころか「国民としての義務も果たせぬ非国民」を排除して健全な愛国心有するものだけが等しく福利を享受するが如き視点になるつつあることの不気味さ。
▼中国本土での「不法」出稼ぎ労働者の動態について子女の教育でもかなり深刻なものあり。国内の移住も制限ある中国では辺境だの農村での貧困から大都市への不法出稼ぎが盛んであり、その数1.2億人(人口の1割)に昇るというが、そういった家族での子女は当地での義務教育を受ける機会がなく北京の人民大学人口研究所のDuan Cheng-rongの調査によるとそういった家庭の45万人の子女が学校に通わず100万人以上の子も教育が不十分。ここで深刻なのがその子どもらが文盲となること。中国において文盲は1949年の建国の頃に4.66億人だったのが82年に2.3億人と半減されたが近代化によりその陰で文盲の若者が増えるとは。何が社会主義なのか。