富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月十五日(日)曇時々雨。昼からジムにて二時間鍛錬。お稽古にて時々最後のクールダウンにLuigi Denza作曲のフニクリフニクラを使うのはジムの自由だが振付けが曲調からか中世の騎士物語でも想像してしまったようで、この曲がイタリアのヴェスヴィオ山の登山鉄道の宣伝音楽といふことが判っておらず。昨日の「砂付近さん」暴打といいこの中世騎士版フニクリといい連日驚くばかり。フニクリといへば余の世代だと戦前の話となるがこの曲を時雨音羽の歌詞(あえて訳とはいわず)で二村定一歌った「となり横町」なる曲思い出すばかり(こちら)。ジムを出て百年ぶりに旺角の新旺記で叉焼飯と例湯食さむと訪れれば新旺記の場所がDVD Cheapyなる見るからにどーでもいいDVDとVCD屋に成り果てており新旺記がいつの間にか閉めていたこと知り立ち竦む。叉焼飯も美味かったがこの店の例湯は「ガサツなほうの」例湯としては香港でも有数の味。無念。この一、二年で香港の昔からのいい店がかなり潰れてしまった。昏時西湾河。いぜんから気になっていた牛筋売る屋台が西湾河の太安樓なる集合住宅の地階にあり、この商店街は昔ながらの香港の下町の小汚い店がいまだにいくつも並び郷愁あり、その牛筋屋がよく見ると太安樓から太健街に出る角の電気屋の小銭稼ぎなのだが、どう見ても電球だの電池だの売る本業より牛筋のほうが儲けもあるようでいつも客が二、三人あり。試しに牛筋を一串食してみるが小汚いが確かに美味。思わず近くの士多でサンミゲル一缶。香港電影資料館。ドイツの20年代から活躍した巨匠F.W.ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau)の特集始まり、まさかMurnauを香港で見れるとは思ってもおらず。“Mosferatu”は吸血鬼映画であるがペストに感染した船がドイツの小さな港に停留し(まさに疫埠)その街がペストで疫禍となるという物語が偶然にもSARSの疫禍に襲われた香港で見ると他人事に思えず。1922年、もう80年も前のこの映画がre-printされているとはいへ映像の鮮明なこと。当時のドイツのレンズが、撮影機が、そして何よりもフィルムがどれだけ良質であったか。画面の隅々までソファの布柄まで鮮明にうつり唖然とするばかり。帰宅して白葡萄酒飲みつつタイ産のソーセージ、そら豆を茹でずに皮ごとオーブンで焼いて、トマトのバルサミコ酢和え、チーズとクラッカー、塩バターでパン。NHKの『武蔵』数ヶ月ぶりに見る。ちょうど一乗寺下り松の場。確かに盛り上がらず。例えば『風と雲と虹と』で平将門加藤剛)の俵藤太(露口茂)との戦いであるとか藤原純友(緒方拳)のハレさであるとか懐かしいかぎり。何よりも物語が「おつう」などの所詮どーでもいい話に偏りすぎ。メロドラマに非ず大河ドラマなのだがおつうの恋愛沙汰は大河でないのである。これは例えば『風と雲と虹と』で吉永小百合太地喜和子ですら、『草燃える』の友里千賀子(静御前)ですら、今回の米倉涼子ほどの人物描写はされておらず。何故かといえば大河ドラマだから「おつう」は申し訳ないがどうでもいいキャラ。珍しく大河ドラマに続けて『NHKスペシャル』でガンダーラクシャナ朝が仏教に果たした役割などみていたく感動。東大寺のお水取りが確かに火を祭るゾロアスター教の影響などといわれると背筋ぞくぞくするばかり。日本にいるよかウソでもこうして大陸の一地方に身をおくとこの大陸の悠大さを感じらざるを得ず。Miles Davisの“Round about midnight”久々に聴く。
▼日経に豪邸型結婚式場のブームの特集記事あり。結婚式大手T&Gが手がける式場など全国のこういった豪邸型といわれる式場を紹介しているがアーセンティア迎賓館(仙台)だのアーカンジェル迎賓館(宇都宮)だの、ラ・フォレスタ・ディ・マニフィカ、ザ・ハウス・オブ・ブランセ(ともに茨城)、コルトーナ多摩ウエディングヒルズ、アンジェリーナ(山形)、アートグレイス・ウエディングコースト(大阪)など奇抜通り越して意味不明の式場ばかり。唯一、北九州の「海の見える迎賓館」は意味納得。そもそもこのT&Gなる会社がテイクアンドギヴ・ニーズといふTake and Give Needsで“互助”なのだろうが会社名からして奇抜な和製英語秋元康先生かかわりあり……なるほど。それにしてもArthentiaは意味全く不明、Arkangelは欧州の動物権益保護過激派だのブリュッセルのエロサイトだし、La Foresta di Manificaはmanifestazione=見せるから「披露の森」という和製伊語なのだろうか。The House of Branche? も英仏ごちゃまぜ、せめてThe House of Brideだと「婚礼の家」で結婚式場らしいか、このThe House of Brancheではbrancheは英語ならbranchであるからThe House of Branchで敢えて約せば「分家」ぢゃ妾家ぢゃあるまいし新婚早々物騒(笑)。Cortona Tama Wedding Hillsはコルトーナが「イタリア・トスカーナ地方の街のひとつで、聖母マリアがキリストを宿したことを天使に告げられる様子を描いたルネッサンスの名画『受胎告知』(ベアト・アンジェリコ作)が司教区美術館に所蔵されていることから“天使の舞い降りた町”と言われており」「また、最近では映画『ライフ・イズ・ビューティフル(1998年・伊)』の舞台にも使われるなど、丘の上に広がる特徴的な街づくりがイタリアののんびりとした片田舎の風情を残しております」とこの式場のサイトに紹介されており名づけた意味もどうにか納得。アンジェリーナは佐野元春の歌でも「オー、アンジェリーナ 君はバレリーナ ニューヨークから流れてきた 寂しげなエンジェル」とあったが、この歌詞も式場名も意味がないのは同じ。アートグレイス・ウエディングコーストも同業のベストブライダルという会社の経営で、このArtgraceも当然和製英語だがArtとGrace(優美さ)のつもりでもgraceには特赦だの支払猶予だのの意味もあり結婚と思うと笑えず。つまりこの世界ほとんど意味がない。かつては明治記念館とか東郷記念館とか椿山荘とか結婚はなぜか明治に遡っていたが(今も、か)そういった“伝統”(なにが伝統なのかわからぬが)から乖離するといきなり地中海を望む意味不明の世界に陥ってしまうのは何故か。
▼意味といえば同じ日経ので橘玲の「日曜日の人生設計」で「教育から目をそむけること」という一文あり。これは橘の知人に高校教師があり、この学校は授業もロクに行えないほどひどい学校で授業中に生徒がタバコ吸いに教室から出てゆき、昼休みなど校庭が喫煙所、と。それを注意もできぬ教師。「荒れている」ということも可能だが、学校側にしてみればこのような若者たちが異様な格好で昼間、街を徘徊して「健全な社会生活を脅かすのを阻止する」ために学校が「生徒の収容施設」として機能しており、教師はその収容という「地域社会の期待に応える」「重責に耐え」ているのだ、と。橘玲はそういった学校の現状に対して「その事実を気にかける人はいない。汚いものから目をそむけたいのは誰だって同じ」で人々は「どのような子どもでも、正しい教育を受ければ、豊かな教養と人間性を兼ね備えた立派な大人に育つ」という「教育に大いなる幻想を抱いている」のだが、それが現実にはあり得ないのなら橘も「私とてこの美しい神話を汚したくない」から「ならば自分が目にしたものを記憶から抹消すればいい」と。それが幻想ならば美しい神話にすることも間違い。そもそも教育という名のもとに子育てが個々から国家という政治装置に委ねられ公教育の名が被された段階での「放棄」があり、学校が荒れるのは教育の問題ではなく社会そのものの問題。目を背れば背けるほどひどくなるもの。