富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月十日(火)雨。さして日剰綴るほどのこともなし。フランス語をMP3で聴きながら車窓から眺めるとQuarry Bayの電車道もどこかパリのシナ人街に見えるから不思議(笑)。風呂につかり小熊英二+上野陽子の『<癒し>のナショナリズム』少し読む。
▼中国の自家用車台数1000万台突破、3年で倍増と(日経)。中国での自動車といふと思い出すのが20年ほど前に吉林省北朝鮮国境のカルデラ湖有す長白山の麓、二道白河を一人訪れた時の事にて、その二道白河の村で出会った青年が(これは当然当時は自家用車でなく)彼の属す国営企業で山路ゆえに日本製のジープを購入することとなり、ちょうどこれから瀋陽に出ようとしていた余と一緒に山村から下ろうということになったのだが、この青年の行き先がなんと海南島北朝鮮に近いこの村で購入する自動車をベトナムに近い海南島まで受け取りにゆき海南島からそれに乗って帰ってくる、と。今にして思えば関税優遇のあった海南島がこうして日本車を輸入し(恐らく並行輸入)国内で売りさばきかなりの利益を上げていたのだろうが(それが贈賄だの公費横領で90年代に深刻となり海南島じたいが断罪されたのだが)たかだか一台の車のための中国横断にただ驚くばかりであった20年前のこと。この青年と通化といふ嘗ての満州国政府がソ連侵攻受けて新京(現・長春)を捨てて逃げ込んだ臨時首都(といっても名前だけで数日で陥落するのだが)まで一緒する。ちなみにそのときの一人旅は未だ個人旅行で中国入境の査証とれぬ時代でわざわざ香港に来て(佐敦にあった富士ホテルに投宿)広州、北京、長春、白城、チチハル満州里、海拉爾、加格達奇、ハルビン吉林、敦化、白河、長白山、通化瀋陽、大連、上海、香港、高雄、台北という50日ほどの一人旅。
▼英国INCAの調査によると年間授業日数は小学校で香港は190日とだいたい世界の平均、最も少ないのが言わずもがな(笑)ラテン国家でスペインとフランスが180日、それにポルトガル185日と続く。意外にイタリアが200日と多いのだがこれも予想に易いが200日を越えるのは韓国が220日で日本が世界で最も多い225日。スペインやフランスに比べ年間45日も多く通学、小学6年間で270日、中学3年までを義務教育とすると405日と実に1年余多く学校に通っているわけで9年間に対して10年間の義務教育を施していることになるのだが、その1年分がそれぢゃどうなんだ、と質されると答えに窮すのが日本の教育「制度」。
▼画家村山槐多の評価について村山槐多の絵がそれほどまでに凄いのかどうか感性乏しき余には判らず未知ながらすでに畏友に匹敵するS君にそれを聴く。S君曰く村山槐多に限らず日本近代の洋画家の多くについて同じ問題があるといえて、本来、美術家の評価は一般に生前における高い評価の延長上にある(例えば雪舟)が難しいのは生前において評価されながら没後に忘れられた画家たちの中には二種の場合があるということ。一つは評価そのものに問題があった場合、もう一つは評価した支持層が没落した場合。後者の代表格は谷文晁(絵は谷文晁筆の雪舟岡山県立博物館蔵)で、これは「幕末から戦前までの間の彼の支持層が主に皇族華族だったため戦後その評価まで下がってしまった例。前者の「評価そのものに問題があった」例となるのは敢えて名前の公表を避けるが(笑)誰でも知っている抜群の頭脳と政治力有する巨匠とか。で村山槐多だが、見落とせないのは彼が22歳の若さで亡くなっておりながらも実は明治の日本美術院の洋画部のエリートでかつ大正のアヴァンギャルドとも接点がある、という時代を跨いだ存在であり、それに文学の側からの評価も可能であり美少年や女性との情熱的な恋と失恋のような事件に彩られた短い生涯も関心を惹き、実のところ「彼を評価しない方が難しい」とS君。たとえ作品そのものを見て「本当に、そんなに魅力的だろうか?」と疑問を抱いたとしても、である。やはり村山槐多が脚光を浴びるのが今の時代なのであろうし青木繁が80年代に今よかずっと脚光浴びたり、時代の要因と支持者の盛衰があるはず。岩崎ちひろと東京都の革新主婦の存在の関係と雜誌『クロワッサン』の部数とか。