富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月九日(月)大雨。昨晩は老四川でかかっていたテレビで「重建香港獻愛心」とかいう題のSARS復興祈願「愛は香港を救う」の如き慈善番組あり毎度のことながら芸人が歌い財界だの政府の偉いさんがその舞台見て拍手しているだけの番組なのだが一昨日は利用者激減で大打撃の空港の搭乗ロビーを使って「香港再起飛」なる同様のイベントあり。今日の新聞にこの「香港再起飛」に出演した女性(元芸人だが現在は中国の全国協商会議の委員でもある)が舞台前だかに慌てて洗面所を使おうとしたところ、その洗面所が來賓である董建華夫人専用と使用拒否され激怒、と。空港管理局側は行政長官夫人専用にしたつもりはなく、あくまで來賓用でこの女性も來賓として使用できたはずが何らかの誤解で、と釈明。いずれにせよ何かと人々が不快に思う印象強い行政長官夫人。夕方ミシュランのフランス案内購おうとPacific PlaceのKelley & Walshだったか書店訪れるがここにもミシュランなく(もう三四軒そこそこ大きな洋書店巡ったがどこもミシュランを置いておらず、あるのはLonely Planetなどばかり)、Covaの横通ったら薄暗い店で其処だけ照明の明るい一角あり誰がまた賑やかに、と思えばAnita梅艷芳姐だのNicolas謝霆鋒君だの芸人五六名にて下午茶。確かに歌舞音曲に精進する芸人だけに華あるが、店の外には蝿マスコミが飛び回りよくその下品な取材を起こる芸人諸君だが、よくよく考えればわざわざ四方八方から素通しで見えるCovaの店の、しかも最も照明明るい場所に陣取り、それでなくともチンドン屋の如き風采にて有名芸人であるから誰が見ても目立つわけで、わざわざそこまでして目立っておいて「プライベートな時間」だの蝿マスコミが群がるのを非難したりは大きな矛盾。けっきょく民衆のまなざし浴びてナンボの世界、常人には非ず。ちなみにこれ翌日の新聞(蘋果日報)にて記事みれば、芸人梅姐やNicolas謝君らがPacific PlaceのCovaにて茶など喫していたのは盈科保険の設立した教育基金保険計画なるものの開設式だそうで、梅艷芳姐がそれの親善大使だか仰せ仕った次第。紀伊国屋より本届く。デイビッド・コパフィールドは新潮文庫中野好夫訳で三四巻。岩波文庫石塚裕子訳で30数章読み肌合わず断念しもう二十年以上前に読んだ中野好夫訳に少し目を通すと、そう、この小説は石塚裕子訳のような主人公の「僕」が書いているのではなく、中野好夫訳のようにディケンズのような大人が若い頃の日々を回想してくれなきゃ困る。そうでなければ老境にさしかかった読者も胸躍るというもの。それに坪内祐三の『一九七二』文芸春秋小熊英二上野千鶴子ぢゃなくて上野陽子の『<癒し>のナショナリズム』慶応大学。かなり売れているらしい養老孟司バカの壁』とても期待し某所への地下鉄の往復で一気に読む。ベストセラーだそうで「なぜバカがいて何がバカの限界なのか」を養老先生らしく痛快に弁証してくれると期待したが正直言って期待外れ。バカが一元の発想で壁の向こう側が見えず、向こう側の存在が見えていない……そんな誰でも米国大統領見ればわかる程度のことで結ばれていて、そのなぜ一次元の発想しかできないのか解剖学の先生らしく人間が進化しているようでkyo-biの世界見ればバカは寧ろ増えているのは何故?という疑問に応えてくれると期待したのだが、最後は多元的思考、複眼でのモノの見方を提唱するだけで、これがなぜベストセラーなのかわからぬ。まぁいくつか面白かった点といえば養老先生に対して碩学「こんばんわ」ピーター・バラカン氏の「養老さん、日本人は“常識”を“雑学”のことだと思っているんじゃないですかね?」という指摘、戦後の日本人が失ったものが<身体>で、戦前まで軍隊が担っていたのがこの<身体>であり、そこに所属していれば身体について考える必要がなかった、と。戦後はそれがないことで身体を支える思想というものが欠如してしまったこと。長嶋茂雄の言語感覚が普通の人と違うのは優れた運動能力のためにシナプス神経細胞間の接触点)をふっとばして(爆走して)情報が伝達されることに関係あるのでは?という推論。それにしても養老先生ともあろう碩学に残念だったのは「退学」というキーワードについての文章で(というかこの第7章の教育論はあまりに凡論なのだが)退学は復学が前提になっており、それが団塊の世代以降は退学は学校に戻れないようになってしまった、と。そこで持ち出したのが桑原武夫の「森外三郎先生のこと」という昭和初期の旧制三高の学生ストでの校長の義徳についての回想で、この校長はストに加わった50名の学生を退学処分にしたが大学進学のための卒業検定試験を実施しこれらのスト学生が進学できるよう配慮をして自らは責任をとって校長を辞任した、と美談ではあるが、これを持ち出して今日の教育荒廃を嘆いてもどうすればいいのかしら。戦前の旧制三高である、ここの学生はバカなのではなく頭がよすぎて左傾して時代に逆らいストしたのであって、校長とてこれらの英才の将来を思っての尽力、現代のいわゆるおちこぼれの学校とは全くことなる環境。この『バカの壁』読んでもあまりなぜ戦争だのテロだの民族宗教間の紛争おこすバカがいるのか……たんにそれが一次元の思考であるから、だなんてことは小学生でもわかること。養老先生にはもっとすごい理論を期待したのだが、残念。
▼昨日の日経の「春秋」が文部大臣に対してかなり強烈なる批判。主張は最もなのだが社説ならまだしも春秋でなぜここまで?と思うほどの内容。それくらい主張して当然なのだが産経だの読売の親方日の丸での主張を除きそういった自己主張がないのが日本の当たり前になっており昨日のそれには驚愕。日経もリトルナベサダ鶴田元会長への損害賠償までおこされ多少風通しがよくなったのか。よくわからず。