富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2003-06-03

六月三日(火)曇。黄昏にジム。最近は平日はせめて週1になりぬ。ジム出ようとしてばったりT君と邂逅。T君は某銀行にて余の口座担当で数年前に別銀行のPrivate Bankingに移る。最近の話を聞けば長年つきあう恋人、これが或るコンピュータ系ベンチャー企業の御曹司にて数年前のハイテクバブルの頃はかなり羽振りよかったが一気に冷めた最近は噂も聞かぬが、その彼が今は市民権有する豪州にいるそうでT君もその彼を保証人として移民目的で現在の仕事止め来月渡豪、5年間のうち2年の滞在があればT君も市民権を得られるそうで、それまで5年は豪州と香港を往来、と。こういう緩い感覚で国籍であるとか永住権であるとかが扱われているのが日本を除く世界の現実。日本はたかだか日本国籍の相手と結婚しただけで中国にいる親兄弟親戚までの素性明らにさせる。帰宅して明日が端午節、今年は中環の金庸記の粽をいただ(写真)。一つHK$70だかするのだからさすが金庸記のいい値だが魚介類から上質の鶏肉、椎茸など具豊富。いただいた苺があり、苺といへば日本では蜜柑を抜いて果物の消費量で一位が苺だとか、苺など洗わなければならず蔕を取らねばならぬし甘みも弱く蜜柑のほうがよっぽど美味いと思うのだが、Z嬢が苺をBalsamico酢とメイプルシロップに和えて、これが殊のほかイケる。毎週火曜日の夜は隣家にて夜8時に教師参りピアノの練習あり。隣家の愛娘がピアノ弾くのだが夜11時なっても弱音ペダルすら使わずピアノ引くので抗議したら隣家の主人は余を彼の家庭の幸福崩壊させるテロリストとでも思ったのか過剰な反応みせ妥協すらせぬ態度とっていたが、さすがに住宅管理所より指摘あったようで弱音ペダルは使うようになり、それで毎週火曜日の練習だが何が不憫であるかといへば折角親が娘のためにとピアノ習わせても香港式でOxfordだかのmethoodで試験の課題曲ばかり練習、それも教師が弾いてみせて覚えさせてゆく練習が一曲のためにもう半年以上続いており、実際の課題曲はその子にとって実力よりかなり難度が高いのだが徹底してその曲ばかり、しかも譜面を読ませていないとZ嬢は指摘。これぢゃこの子にとって本来のピアノは会得できず可愛そう。それを娘のためと盲目的に施そうとする親もまた不憫。最近越してきた反対側の家は麻雀キチガイ家族。どういう家族構成か知らぬが狭い家に大人3名と高校生くらいの娘にまだ幼児が一人。そこで連日のように麻雀、週イチで徹マンもあり、他人事ながら他に何かやることないのだろうか、娘と幼児はその狭い家で麻雀の音聞いてどうしているのだろうか、聴覚はもはや麻痺しているのだろうか、などと想像。荷風先生の『ふらんす物語』読む。『あめりか物語』でもそうだが娼婦は英語でも仏語でも「おにいさん、ちょっとあんた、〜ちょうだいよぉ」と烏森口の私娼の如し。これが風情といふもの。ちなみに当時これがウケたのは米仏にて悠々と遊ぶ荷風先生が羨望されたからであり、荷風先生といへども『ふらんす』あたりだとまだ文章は習作、そのうえ新版の文庫本ではやたら句点が打たれ読みづらいのだが……。ところで身は米国にあっても渡仏に憧れる荷風先生曰く(句点は省いた)
何につけても吾々には米国の社会の余りに常識的なのが気に入らない。ロシヤのような例えばキシネフの如き虐殺もなければドイツ、フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。ユーゴーがエルナニの昔、ドビユイッシイがペルデアス・ヱ・メリザンドの昨日を思わせるような激烈な芸術の争論もない。何も彼も例の不文法(Unwriting law)と社会の世論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる。
videonews.comにて神保&宮台のTalk on Demandにて漫画家の江川達也氏ゲストにした日本の愛国心談義聞く。英仏に見られる王政を打倒するためにうまれた愛国心と宮台氏のいう田吾作を集めて国家を作るために想像された愛国心の違い。日経の衛星版付属誌の連載の原稿校正。
▼朝日の天声人語「ひかえめな愛国心」説く。
「他の国よりそれほど見劣りはしないと信じたい」。そんなささやかな「愛」である。
……と。自民党麻生三世の「創氏改名朝鮮人が望んだ」といふ
「控えめ」ではない刺激的な発言
に対して、伝統工芸展50年を記念する「わざの美」展を見た天声人語子は
「日本工芸の多様さと美しさとを改めて教えてくれる。繊細な技能を駆使した「控えめの美」が「控えめな愛国心」を満足させてくれた。
そうで
愛国心をあおるような政治家発言や、教育基本法をめぐる「愛国心論議などを聞くにつれ、思う。日本の伝統が育んだ「美」を見る方が「愛国心」にはどんなに効果的か。
と。言いたいことは、形骸だけの国家主義(ここでは他国を詰っての権威主義)を徒に煽るのではなく、素直な心で誇れるもの(ここでは工巧の美)を培うことの大切さ、なのだろうが、そもそも愛国心と工巧というのは質的に全くことなるものであり、ここで「危険な」愛国心の抑制のために工巧を挙げて用いることの朝日の天声人語のなんたる幼拙ぶり。丸山真男先生が読んだら卒倒するであろう、これ。本来、ここで「朝日の嫌う愛国心」と対峙して主張されるべきは(寺島実郎氏が積極的に主張しているような)憲法であると理想的な平和、民主と自由などを標榜する日本という国家(もしこれがあるのなら)それへの積極的な愛国心であるべきで、現実にはいくらそれがここまで蔑視され慘澹たる社会であろうとも、「ひかえめな愛国心」などという全く意味のない屈折した言葉で濁すとは呆れるばかり。どんなに嗤われようと、護憲なり丸腰平和論なり主張してこそ朝日であろうし、それを積極的な愛国心と主張するべき。それがH君曰く弱弱しく「ボクらも愛国者だけど、ただちょっと控えめなだけなんだよね」と語らざるをえないところが、今日の朝日・民主党左派の思想的な致命傷、と。21世紀の「ひかえめなファシズム」がここにある。