富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月二十七日(晴)昨日仙台で大きな地震あり。七年ほど住んだ街ゆえ知己多し。築地H君、同仁齋医師N博士ら畏友として今に至る彼らと出会ったのもこの仙台にて思い出も少なからず。最近ふとしたことで知遇得たS君より「身は波濤を隔つるも意は至れる哉」(富岡鉄斎)という言葉教えられしが、仙台の畏友想へばまさにこの心境。地震のさまNHK仙台放送局だかで記録用ビデオテープ棚から落ち床に散乱する映像がその地震の大きさ伝えるが、これとかコンビニで床に散乱する商品とか酒屋の酒瓶とか、地震頻繁なる土地柄なぜビデオテープだの耐震で棚から落下せぬようにしないのか、と思う。耐震でなく耐映、まるで散乱した様を見つめる「まなざし」を期待するが如し。黄昏にジムにて慌て鍛錬済ませ晩に九龍某所でお手前の披露あり半時間ほど参加。往復の地下鉄にて江戸川亂歩『隨筆選』筑摩書房「藻屑塚」まで半ば読む。藻屑塚は江戸の藻屑物語についての一綴にて此れは西鶴が『本朝若風俗』に、また蜀山人、馬琴らも注目せずにはおれぬ江戸の恋物語。さすが亂歩先生、1919年にわずか22歳で夭折した京都の画家・村山槐多に関心寄せぬわけもないが『槐多「二少年図」』には亂歩先生が初めて洋室めいた書斎持った折に祈願して槐多の描いた「二少年図」を得て壁に飾ったこと、また槐多を初めて知ったのが実は絵ではなく槐多が17歳で書いた『悪魔の舌』なる探偵小説が同じ年の頃であった亂歩少年を驚かせ、槐多の『殺人行者』や『魔猿傳』を鬼才亂歩先生らしいが谷崎潤一郎『白昼鬼語』と佐藤春夫『指紋』と並べて「日本の最も優れた探偵小説」と絶賛するのである。亂歩先生のエロティシズムまことに拝読するに値する世界なり。ただ一つ不可解なることは亂歩先生、この『悪魔の舌』読んだのを「その頃私は名古屋に住んでいて中学同級生であったが」と綴るが年譜によれば先生の名古屋は愛知県立第五中学(現・瑞流高校)在学の明治40年から43年(13〜16歳)にて、槐多のこの『悪魔の舌』同人誌で活字化されたのが大正4年の頃、亂歩より二歳年下の槐多、すると亂歩先生は既に21歳で上京しており早稲田の学生のはず。ところで亂歩先生、大正八年には浅草オペラの田谷力三少年の後援会主宰。まことに興味深き亂歩世界。
▼次の天覧歌舞伎はどうなるか?と築地H君、10年後として円熟した菊吉か。これが六代目と初代吉衛門とに続く「第二次菊吉時代」の到来、音羽屋の義経播磨屋が弁慶。で、問題はそのときの成田屋の扱いで富樫は成田屋でもいいのだが「前回ご覧いただいたから」ということで本来なら松島屋の富樫こそ「当代の顔合わせ」のはずなのだが敢えて高麗屋を据えて主演=播磨屋、助演=高麗屋という序列を天下に示すまたとない機会、と。確かに。それにしても播磨屋の弁慶、音羽屋の良経に松島屋の富樫は見たい顔合わせ。で、この10年後の天覧歌舞伎で京屋さんがご健在で今上陛下の御前にて昭和15年より6年間兵役についた昭和の女形の髓なるものを道成寺でお見せする。腰掛けたままの姿勢で後見の息子・友右衛門に支えられながら指先の動きだけで大曲・道成寺を踊り抜く九×歳の人間国宝大野一雄先生に匹敵か。
▼昨日紹介せし「5月の大型連休に娘が中国旅行していたという父親が娘帰国ののち自主的に10日間自宅待機して出勤控えた」という出来事。父親にしてみたらこの時期に中国旅行した娘が非常識だろうが「まわりにもし感染が広がったら」と心配したこの父親のほうが非常識ではなかろうか。日本社会にありがちだが「他人に迷惑をかけないように、かけないように」といろいろ余計なことばかりして実は他人に迷惑かけているのが実情。対外的にも自分たちが懸命に真摯にしているつもりが、実はそれが規制であったり効率性の妨げであったりすること多し。
▼一昨日の唯霊氏の文章で湾仔の上海料理の老正興が秋の上海蟹の季節到来まで暫時休業と知る。ちなみに上海の老字號で香港に移遷してきた店だが上海にも既存の店は名前こそ同じだがすでに違う経営に拠るそうで「さもありなむ」という味であったことを数年前の赴滬(滬「コ」ハ上海ノ別名)の折に感ず。北京の故宮は五月なら日に三万人の人出のところ今年は僅か5百余と。想像してみ給へ。普段なら雑踏で溢れるあの壮大なる宮殿で僅か5百の参観者、ほぼ無人に近き旧宮を静に独り歩めば清旧朝の皇帝の感受凡人にも些か感じらるるものにて、この「非典」真摯に故宮訪れたき者には千載一遇の機会。
大西巨人氏が週刊読書人で「歴史の偽造」について語っている(聞き手ハ鎌田哲哉)。大西氏は「卑屈な例」として挙げているが、かつて氏が『神聖喜劇』を光文社カッパノベルズで上梓していた当時、光文社の組合争議で二つある組合のうち第一組合がスト強行、寄稿する作家らにも共闘の執筆拒否呼びかけ、それを断った者には「おまえは資本家の味方か」と指摘。大西氏はそれに対してスト決行しその間も自らは賃金を得ており、ならば寄稿家の印税も一割を一割二分に、原稿料を三千円から五千円に上げる共闘を提案。当然断られたが、鉄道会社が春闘するならストで乗客の足を奪うのではなく無賃で乗車させよ、と大西氏(ソレガ市民革命本来ノ祝祭的蜂起ナリ)。……と、ここからが「歴史の偽造」についてなのだが、あとになって大西氏は組合の執筆拒否を拒み光文社経営陣は大西氏に感謝しなければならない、と書かれた、と。これが歴史の偽造。大西氏が共闘拒否したのは事実だがその理由は経営陣への協力ではないが、そう書かれ、それが活字となり歴史に残る。またもう一つの例は新日本文学での安部公房埴谷雄高関根弘らとの対談で(ソレニシテモ凄ヒ面子)、ちょうどフルシチョフスターリン批判の出た頃で、それが後年『安部公房全集』に採録されたが文面だけ読むと大西氏は「スターリン個人ぼろくそ批判に反対なんです。『非スターリン化』不愉快な言葉だ」とあり、これだけ読めば大西氏はスターリン崇拝か、ととれる発言。だが真意は「政治上の事柄が起きた時に事態を特定の個人の特殊性だけにもっていって話をすることがいけない」ということで、スターリン自身には否定指弾されるべき点はあるがそれに追従していた者、社会が見えなくなるのであり、それは大西氏にいわせれば反「スターリン主義」と「反スターリン」主義の違い。大西氏は前者なのだが安部公房全集での対談を読めば後者に読めることに。こうして歴史は偽造される、と。