富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月十八日(日)曇。朝競馬予想少々。昼にかけてジムにて鍛錬二時間。敬服に値するお師匠さんE嬢珍しく時間10分間違え普段なら名取か師範代格の取巻きいるものの今日に限って誰も指摘せず10分早く終る。防海道街市の徳發かつては日曜休みだったはずが開いており牛南麺食す。スターフェリーにて湾仔。一旦帰宅するつもりでバスに乗るがバスが東區走廊からQuarry Bayに下りた所に位置する香港葬儀館の裏に多くの弔花破棄されており(写真)見てみたい風景にて太古坊過ぎてからバス降りて散歩しながら香港葬儀館に戻る。いつも思うがこの葬儀館、隣が香港煙草有限公司なのは笑えず。海澤街を歩く。かつてはここも海岸線であったのだろうが、屑屋、廃紙、古タイヤなど扱いが軒並べるのも葬儀場の更に先という場所柄か。この先に太古の精糖工場があった程度の市街の外れ。そこに太古城のような巨大な住宅地が出来ようとは。太古坊のEast End(写真)にてStella Artois飲みつつ読み終らず持ち歩いていた新聞雑誌読む。通りに面したテーブルにいたら突然に糖廟街が通行止めとなり何事かと思えばPCCWの従業員のデモ(写真)。従業員の退職金制度見直し基金削減に抗議。日曜の午後遅く客の少ないカウンターで独りStella Artois飲んでいた泰西の初老の男、余に「いったい何のデモだ?」と尋ね、これこれ云々と応えると退職金削減など英国でも同様、と。PCCWの場合かつてはCable & Wireless社の傘下にて香港の優良企業がこの有様、かなり通信分野は今さら儲からないのはBritish Telecomも同様でしょう、と余が言えば彼も肯く。デモ隊はこの酒場の向かいのビルにあるPCCWの本社前にて気勢上げる。実際の本社ビルはもっと先なのだがこの太古坊有するSwire集団がデモ隊の敷地内への進行を拒んだのかかなりの数の守衛を配置し、酒場から見える広場にてPCCWに対して抗議のシュプレヒコール続け解散。目の前には酒場何軒かあり、日本の、かつての国鉄のデモなど見ている者としては感覚的に日曜日の休みにデモに出たら終ったらビールでも、なのだが2千名弱はいたであろうデモ隊は解散すると三々五々酒場の前を通って帰ってゆき酒場に入ったものは皆無。そういうものか。余は酒場を出てデモ隊が去った太古坊の広場を通ると、さっき守衛を配置し盛んにデモ隊の写真を撮っていた背広姿の主管級の男、鉄柵を運んでいた男を「おい、ちょっとそこにその格好で立っていてくれ」と命じて鉄柵運びの写真撮影(写真)。だが、余は先ほど酒場を出てデモの写真を撮っていたが、この鉄柵、用意されたが実際にはかなり統率されたこのデモ抗議で鉄柵など使われていなかったのである。いったい何のためのこの「やらせ」の写真撮影か。鉄柵も用意しましたよ、という意味か、鉄柵が使われました、という意味か。いずれにせよ、こうして「事実」が作製される、という風景。この背広氏、自分が撮影している姿を撮られているとも知らず間抜け。それでデモ対策の責任者とは。西湾河の香港電影資料館にてZ嬢と小津の『突貫小僧』と『その夜の妻』看る。『突貫小僧』は語りつくされているが特に『東京人』で数年前に突貫小僧=青木富夫の回顧録が面白かった。『その夜の妻』1930年はあまり期待せずに見たが小津の構図とカメラが単純な筋をかなり緊張感ある作品にしている。美術も、その撮り方も今見ても何ら遜色なし。昨晩の『非常線の女』の田中絹代の拳銃姿は笑ってしまうほどだったが、今日の八雲恵美子の着物姿のしかも「二丁拳銃」は八雲だからこそその拳銃姿がキマッている。北角のJava Rd街市の川粤食府(「あの」東寶小館の隣)にて坦々麺でも、とバスに乗ったがバス間違えて東區走廊を天后まで出てしまい、ちょうどZ嬢がチェック入れていた清風街のPoppy'sなる西洋料理屋に近く其処で晩餐。余り期待していなかったが、オリーブ油と牛酪油、それに大蒜が苦手な方にはかなりこってりしすぎだろうが、野菜ふんだんに使いしかも野菜は野菜本来の味があり、値段からしたらいい素材でその量でかなりの食べ応えあり。サラダなど先日、Inter-Continental Hotelのシーザーサラダで椅子からひっくり返るほど陳腐なサラダを供され、飲むのも閉口するほど淡味のエスプレッソは煎れ替えさせてもどうしようもなかったが、この店の新鮮なサラダも珈琲もちゃんとしたエスプレッソで満足。ワインもけっこう充実、ただし選んでしまったLes Famellesってテーブルワイン、Marsanneは、こんな甘口のワイン、料理とはけしてあわず、失敗。近所の晶晶甜品にて湯圓芝麻糊と西米露紅豆沙。窓際の席で甘味食していたらさきほどPoppy'sにて隣席だった家族連れとPoppy'sの経営者に見られる。この店のある電器道、かなり飲食店増えて盛況であり、今日歩いていて「一丁目」なる日本料理屋、名前からして日式だろうが暖簾が「ゆ」(写真)、銭湯ぢゃないんだから……。名前で本当にに日本料理なのか日式なのかはだいぶ判るわけで、札幌とか喜多方ならわかるが飯田橋とか五反田ならまだしも(それだって美味そうじゃないが)東武線は足立区の「五反野」とか(東京都民でも知らない人が多かろう)、この一丁目とか不可思議な店名多し。そういえば夕方East Endのそばで「福助」なる日本料理屋発見。福助なら確かに日本でもヘンぢゃないのだが日式である根拠思わず発見したのはローマ字書きがFuku Sukeなのである。ちょっとしたことだが日本語では福助は名前であるからFukusukeであってFuku Sukeとは区切らないだろう、きっと。
▼岩波『世界』6月号読む。読者談話室に北海道の高校2年のI君の投書あり巻頭頁を飾り世界平和への提言見事ながら積極的な平和築くのは個人の意識の有様であり、それをつくるのが教育、と。そこまではいいのだが、「現在の日本の教育システムは学校が受験のための教育機関となり、思考能力を育てる教育をしていない」そうで「教育によって思考能力を発達させることは「子どもの権利条約」第29条で明確に目指されているはず」と。こまっちゃくれたガキ(笑)。杉田敦氏(法政大教授)が統一地方選挙について、石原300万票に見られる「強いリーダー求める」世相について、確かに余も最も理解できぬのは「石原さんなら」などと期待して終ってしまうほど日本の民度は低いのだろうか、ということ。それは杉田氏に言わせると「自分たちは良識ある人間なので、差障りのある極論を言ったり、外国人への偏見を公言したりはしたくない。しかし他方でそういうことができる存在を確保し「彼ら」外国人に対して睨みを利かせてもらいたい」という、そういうリーダーを頼る、尊敬しているのではなく「ひそかに軽んじながら利用している」ような世相、と。なるほどねぇ納得。だが問題は杉田氏の指摘するようにそういった「強力なリーダーシップを求める人々が忘れがちなのはリーダーが強引になりすぎたと判明しても、その時はもう遅いということ」である。また無党派の流行については「有権者の河に、自分たちは何らかの政党に簡単にかわめ取られるほど単純ではないと思いたい」という強い意識あり。それが過剰だと「無党派になることで、政治という「汚い」世界とは無縁になることができるという一種の幻想が生まれかねない」弊害が生じる、と杉田氏。このような無党派を気取り石原を利用しているようなつもりで、なるほどこれがイマドキの日本にありがちな市民像だろう。
▼同じ『世界』にイラク報道についてBBCが「BBCは英国のみならず世界の視聴者に正確なニュースと情報を提供する特別な責任がある」ために報道用語など徹底的に篩にかけて「わが軍」などという偏向表現を避けて「英国軍」とし、取材源も決定的に明かなものであることが条件で伝聞情報、政府や軍発表の情報は信頼性の確認を徹底、また専門家による軍事行動の詳細や選択肢の予測は不注意のために選択の幅を狭(せば)めてしまう可能性がある、と。日本のマスコミはこの意味が理解できているだろうか。米軍に文字通り思考回路まで「従軍」してしまい「私たちの部隊は」などと平気で宣うNHKの「戦場なんで自分たちの世代で来れるなんて思ってもいなかった」ガキ記者、路上の糞便に群るように何処からか湧いてくる銀蝿の如き軍事評論家、その意味のない作戦予測をバクダッドの市街模型まで作って神妙に報道するテレビ報道……実際に戦争になどなったら自らの国が戦争していて核爆弾でも降っていたら、東京であるとか平壌の市街模型作る余裕なんてないこともわかっちゃおらず。
週刊読書人(5月16日号)に大西巨人氏に聞く(新進気鋭の評論家鎌田哲哉氏による)あり。鎌田氏の言葉が余りにも評論が評論というジャンルの言葉と化してしまひ、その中で育ってきた鎌田氏(1963年生)であるから御年84歳の全身小説家の如き大西氏とはとても言葉が通じていないように思える。ここまで「評論」化された言葉を読んでしまうと、そこから大西氏であれば『神聖喜劇』であるとか『三位一体の神話』を「読んでみたい!」と思えないのがホンネ。この号に大空社という出版社から『新聞広告美術大系』なる明治、大正の新聞広告集めた本の復刻版の広告あり、これが手許になく実家の倉庫に眠っており詳細わからぬがこの本の許となっている原本を20年ほど前に仙台だか山形の古本屋で当時にしてみたら1万円で高かったが10冊揃いを入手。それがこの大空社の復刻本では10冊で225,000円なり。原本は225,000円よか価値はないだろう、きっと。村上春樹訳の『ライ麦』ベストセラーで1位、さすが。村上読者がみんな買ってくれるのだろう。そういえば数日前の日経ではこの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を「直訳すると」『ライ麦畑でつかまえて』って紹介しており驚愕。ぜんぜんわかっちゃいないんだよな。