富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月十一日(日)香港の感染者4名、WHOの感染地指定の基準が日に5名の感染にて、どうにか感染少なくしWHOの渡航回避勧告取消したきところ。朝、天気予報は快晴のところ曇り空、Z嬢と少し山歩きでもといふことになり、ミニバスでShau Kei Wan、ミニバス乗り継ぎ石澳半島、鶴咀道は土地湾の上にてバス下りて龍脊(Dragon's Back)に上る。快晴となり見事な眺望楽しみつつ龍脊、いつもなら香港トレイルの道徑に従い尾根の途中にて下るところZ嬢発案にて石澳半島の付け根に位置するMount Collinson(歌連臣山)標高348mまで藪に閉口しつつ(写真)初めて尾根歩き、頂よりの半島の眺め絶景(写真)、更なる藪漕ぎとなり傾斜著しきPottinger峠にまで獣道下る。この香港島東端の山312mを何故に香港開闢の祖、初代總督の名を戴きPottinger山と云うのかは知らぬが、この頂仰ぎつつ心地よき風吹く快晴の空の下、引水路沿いの径より石澳は大浪湾まで一気に下る。すでに盛夏。疫禍に侵されし暗黒の香港と日本の民は信ずる最中、その渦中の香港にて人々爽やかなる夏を浜辺に遊ぶ。大浪湾の浜辺の店にてハイネケン一飲、涼をとりたれば余の目の前にて同じくビール飲みし客立ち上がれば余に声かけ、顔上げて仰ぎ見れば10年ほど前に一年ほど一緒に働きし若者のS君。すっかりいい大人となり再会の二言三言。まことに爽快なる浜辺の午後なり。ミニバスにてShau Kei Wanに戻り南洋館にて遅めの昼餉。満席のところ知己なる女將気をきかせ食事終わりたる客急かし卓につく。回教盛んな南方にて豚は禁忌ながら実はマレーでのソテイなど「闇で」豚肉のソテイ供する店もあり、実は豚肉のソテイが最も美味、と南方通のO氏にかつて教えられたる事ありしが、この店も南洋館といい乍ら豚肉の美味さ評判。鼓油皇猪肺団(茹でた豚肺の甘辛醤油和え)は夏の暑い午後のビールに格別。粉絲春巻、牛舌の白カレーなど食す。Shau Kei Wanの街市(写真)徘徊し帰宅。身体火照りビールの酔いもありマンションのプールにて一泳。プールサイドにて暫し午睡。夕方香港電影資料館にて小津の『大学は出たけれど』と『落第はしたけれど』の二本立て看る。『大学』1929年の作品にて僅か10数分の残片のみ残るが筋じゅうぶんに理解できる貴重な10分の残片にて、大学卒業したものの恐慌にて就職難、若妻この夫に隠れてカフェにて女給、その姿に怒りつつ猛省し職を得る、と、この時代の時代背景じゅうぶんに表され小津の逸材ぶり露見される作品。『落第』は小津の大学生趣味濃厚にて今見ていったい大学生の下らなぬ生活で何が映画として楽しいのか?と思うが当時にしてみれば大学生など末は博士か大臣かの時代、大学生なるエリートをこうして怠惰なる下宿生活、試験にてのカンニングと下らなさ暴露するだけでも痛快なるコメディであったかも知れぬ。『若き日』も若大将シリーズを30年前に先取り、といへるか、と再考す。この頃の小津の大学モノにて主演続ける斎藤達雄、いわゆる甘いマスクに「日本人離れ」の彫りの深い顔立ち、濃い舞台化粧であまりに大袈裟な演技、それが不気味なほどにて何故この人がこうも活躍したのか、と思っていたが、無声映画であることを思えば目でモノ言う必要あり、それがこのような顔立ちの俳優にあの大袈裟な演技を求めたのか、と納得。海峡沿いを太古城に歩けば海峡の向う岸に飛鵝山そそり立ち西に獅子山、大帽山霞の彼方、九龍のの峰々映える(写真)。日はだいぶ長くなり丁度日沒(写真)。ユニーにて押し寿司購い帰宅。『週刊香港』の原稿呻吟。ドリアン食す、美味。
▼疫禍の優等生であった台湾にて台北の感染ひどくなりつ。感染ありし住宅地の封鎖、感染者監禁など徹底措置。感染者当局の措置に反して隔離より逃れし場合の罰金NT$30万(約百万円)なり。地下鉄の乗客須くマスク着用の御触れあり違反の罰金NT$75,000(25万円)のところSouth China Morning Post紙それを"all passengers on the MRT rail system must wear face masks from today or face fines of up to NT$7,500."とfaceを顔面マスクの顔面と罰金に直面の動詞で掛け言葉に笑う。
▼昨晩ふと夜中にこの富柏村のサイトの中身バックアップしておらぬこと気になり、これまで雜誌等に書いた駄文こそスキャン画像にあるものの、駄文とは申せこの日剰、またデジカメ画像など原画なき画像すら多く、米帝テロリストなどの攻撃を思えば空恐ろしくなり、全データのダウンロードなど面倒かと思いきや僅か15分ほどにて済み、手許のPCのサブのHDに収めたほかCD-ROMにも焼いて一枚保管す。全データとてスキャン画像除けば僅か23mbにて、2000年2月よりの約40ヶ月の余の愚活、月にして575kb、日にして19kbなり。ダウンロードして目が冴え眠れず『東京人』6月号に掲載の建築家安藤忠雄と松葉一清(建築評論家)の対談読む。安藤忠雄曰く東京は「経済中心に動き恣意的、無計画で無秩序」だが「70年代に(日本へ)来た人たちは、こんなに面白い都市は世界中どこでも見たことがないと言った」と。松葉氏が「カオスとラビリンスですか」と受けて「半ば皮肉をこめた一種のほめ殺しだったんでしょうか」と朝日新聞的に(笑)差し向けたが安藤先生曰く「いや、当時は本当にそう思って評価した」のであり、70年代は「日本に投資すると儲かるという目論見もあったかもしれない」が「70年代には日本の国には元気があった」と。「それが80年代に入って、日本が大きくなっていくなかで馬脚を現して、それで正体が見えた」のであり、それが今、なぜこうなったか、といえば「政治家や経済人に都市に対する思いがなかったから」であり「子どもの頃から楽しい都市に住んでいないから、都市は働くだけのところだろ思っている」のであり「都市に、例えば美術展や音楽会、演劇を見たりという楽しい場所の体験のない人(某自動車会社の会長とか?……富柏村)が、今日本の国の経済を担い、政治を担っている。それがそのまま今の東京につながっている」と。なるほど。但し小泉三世のように歌舞伎の素養あってもあれ、だ。また上海については松葉氏が「写真一枚で全てがとらえられ、細部まで見たいと思わない都市」と差し向けると安藤氏、これにも誘い水にのらず、上海みたいな都市が現代都市であり「経済の結果が都市をエンターテイメントするということでできていく街」と表現して、上海でも「人間の記憶に残っていくような場所である古い建物を残して住宅にしているところ」(たぶん豫園か静安寺界隈か)を見た安藤氏はそれを評価し(これには異論あり)「上海は超高層ビルもたくさん建設されていて街全体が元気がいいですから」「かなり建築レベルが高くなっています」と誉める。そうだろうか。安藤氏が超高層ビルでこの物言いはないだろうし、超高層ビルがたっても浦東地区など高層建築と隣りのそれとの間の、あの街の殺伐とした光景など知る者には建物が建っただけの空虚さを知る故に松葉氏の「細部まで見たいと思わない」に同感なのだが。但し安藤氏も上海を「あそこは「Eメール都市」みたいじゃないですか」と核心に触れ「日本からメールを送る。そうするとまた向うからメールが来て、そのやりとりで建築ができあがるという感じ」と、なるほどさすが安藤氏、という上海の形容。香港は、……と香港贔屓かも知れぬが、上海に比べるとその超高層ビルとビルの間の路上にも活気と生活あるだけ上海よりよっぽどマシのはず。