富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2003-05-02

五月二日(金)曇。マンションのプールで少し泳ぐ。肌寒し。昼すぎジム。鍛錬。夕方旺角の街を久々に徘徊。バスの排ガス、工事現場の土埃りなど甚だしく普段とても歩く気にならぬがマスクがあれば大気汚染も風塵も気にならず快適。中南図書にて文具購う。Dundas街裏のオタク街にて鉄砲だの軍用品の小店ひやかし。廣華街の景記粥王にて帯子燗完魚片粥、秀逸、相変らず主人がいい人柄だが素人っぽさ格別。旺角の煙厰街にて老人並ぶ行列あり何かと思えば慈善団体がマスク、消毒液など配り、医者が体温と脈を測り薬用茶振る舞ひ。海外からのどこかのテレビクルーも撮影中(写真)。ビデオとってるオジサン、ちょっと「感染しちゃった」みたいな顔色と汗ですが偶然でしょう、ビデオカメラのレンズがLeicaですね、いいなぁ。粥食べたばかりだといふのに花園街の楽園にて清湯牛肉丸食す。やっぱり美味い。これで大八良記で紅豆沙食べたら食べ過ぎ、我慢。少し散歩して八珍食品にて陳皮梅購う。隧道バスで太古城。Pacific CoffeeにてWireless Lan便利、網上の諸事済ます。西湾河の香港電影資料館、Z嬢と小津の『戸田家の兄妹』看る。入場の際に香港映画祭の通行証での入場を一旦断られ、対応に現れたDuty Managerはここでのこの上映は席に限りがあり、この通行証は映画祭の開催期間のみ有効、と宣う。が、この小津の特集が映画祭の一環であり、これも鑑賞できることは主催者に電話で確認しており、brochureにも小津は通行証で見れないとは一切書かれておらず、と説明。すると場内に空席が多少あるので入場許可、と言われ、映画祭の期間も通行証はチケットが売切れの場合はチケット保持者が入場した後に空席の状況次第で入場可という規則こそあるが売切れでもないのにこの措置に不満もあり。この『戸田家の兄妹』初見。小津映画として『東京物語』よりこれのほうが一つ一つのショット、その光景、様式はずっと小津らしく、とくに廊下などでの人の、たんなる廊下なのだが街頭でのような出会いと別れは見事すぎるほど見事な様式美。戸田家の老夫婦演じる藤野秀夫と葛城文子は戦前の日本映画の重要な役者、藤野演じる進太郎が亡くなる晩のなんでもない夫婦の茶のみ談義が見事。藤野は戰後52年の『乞食大将』という映画に1本出ているが45年の終戦以降それ以外出ておらず、葛城文子も45年で終る。良吉役の子役葉山正雄も44年まで。戦後も活躍するのは佐分利信高峰三枝子三宅邦子ぐらいか。だが忘れてならないのは女中「きよ」役の飯田蝶子はもう老け役だが若大将シリーズで若大将の祖母田沼りき役で役者人生を締めくくる。あと二、三回は見たい映画。この映画が1941年、昭和16年に撮られていることもかなり意味深。当時、もう軍事体制のなかで、この「家族の確執」をとった小津も小津だし、これが当時、浅草とかの映画館で上映されていたのだろうか、今でこそ小津、小津と一シーン毎に意味づけしつつ見ているが、当時、これがどう見られていたのか。キネマ旬報のその年の最優秀映画なのだが、このような映画に金を払って見ていた客はどういった客なのか。うちの祖母など小津の映画のことなど死ぬまで一言も口にもせず。そして、この昭和16年でありながら、物語には戦争の「せ」の字も出て来ず。子役の葉山正雄の服装が途中から国民学校の制服となるのが昭和16年という時代を感じさせる程度。ただ佐分利信演じる二男昌二郎が天津での商売、それが戦時下どれだけ焦臭いものかは映画の中では語られぬが察することは可能で、映画では中国へ渡る、のだが香港で見ていると日本人が来る、というふうに見え、しかも昭和16年というのは日本が中国侵略続ける戦争の最中、その戦争を語らずただ商売に行くばかりかこの昌二郎が母と妹、それに女中の「きよ」にまで大陸に来て一緒に暮そうと誘い、老女らも妹もそれに気軽に「はい」と答えてしまう、それが中国側から見ていると余りに現実無視のノーテンキに映るのは事実。日本人の朴な感覚といへばそのもの。小津は敢えて戦争の時代に戦争を語らなかった、といへばそうなのだが、当時の対支侵略が日本でどれくらい深刻には理解されていなかったか、ということがこの映画でもわかる、といふもの。終って出てくると先ほどのDuty Managerが通行証の裏面のコピー見せ「本証通行於電影節期間(4月8日至4月23日)各場未満座的電影場次(以下略)」とあり、これに従い五月の小津特集は見れない、と説明するのだが、確かにこれは痛いところ突かれたが(笑)、この「電影節期間(4月8日至4月23日)」という制限が実はチケット発売段階にbrochureには書かれておらず、それで電話でも確認して通行証を購入しており、購入してから5月は見れません、では人生幸路ぢゃないが「責任者出てこいっ!」である。ましてや期間以降でも先週末に湾仔の芸術中心では『東京物語』など見れているのである。このDuty Manager、自分では判断できないのでコメント用紙にクレームを述べてくれれば上層に判断を仰ぐといふので一筆認めるが、へらへらと笑顔なので責任問題なのだからへらへら笑わず真摯に対応を願ひ退散。予定ではこのあと笠智衆が小津映画で初主演となる『父ありき』を見るつもりが予定狂い、『戸田家』だけで帰宅するつもりだったZ嬢も晩飯済ませておらず、余もさすがに午後三時の粥と牛肉丸では小腹空いて電影資料館からちょっと歩いて湾岸に出、鯉景湾一帯は湾岸のおしゃれな住宅地で界隈に飲食店多く、「味自慢」なるそこそこ客の入った日本料理屋あったが「アジジスン」と壁に書かれており日式とわかって避け、太康街にはハーバー眺めながらの「おしゃれに」戸も壁も払って開放的に並ぶ料理屋あり、どうやらこの開放式が疫禍のなかで好評博しているのかどの料理屋もこの不景気にかなりの繁盛、こういった「いかにも出来合い」の場所には余り来ぬからよくわからぬまま期待もせずVilla Biancaなる伊太利というか、まぁビクトリアハーバーに面した王菲の歌声流れる地中海料理屋。料理は並、ただお願いだからグラスワインとBloody Maryを料理より先に頼んで、出てくるのが前菜より後というのだけは勘弁、しかもBloody Maryがどうしても蕃茄汁の味しかせず、ウォッカの量が足していただく。湾岸のQuarry Bay公園を散歩。もう湾岸でこうして夕涼みする人の多い季節。
▼South China Morning Postに興味深い記事あり。ちょうど20年前の1983年、当時の30〜40代の香港各界の若手リーダーが選抜されYoung Professionals Delegationと自ら名付け、勇み北京訪れ当時の中共幹部らと会見、香港の未来に夢託し大いに語る。このdelegationのリーダーがAllan李鵬飛(のちの自由党党首)、Martin李柱銘(民主党党首)、Andrew Li Kwok Nan(Cheif Justice)などなど錚々たる顔ぶれ。Martin LeeとAndrew Leeこそ返還後の香港法治を担う双璧であったがMartinは89年の天安門事件によって北京政府と袂を分かち香港の民主主義を標榜、Andrew Liは香港司法が結局は全人大の拘束下にあることが大陸籍子女の香港居留権問題で明らかとなるなど北京との厳しい状況の許で香港の法治の独立性ぎりぎりのところで闘う。今晩、この12名が20年ぶりの晩餐するそうな。
▼坂口厚生労働相が昨日、新型肺炎の国内対策を話し合う関係閣僚会合にて「中国全土からの帰国者にのSARS潜伏期間とされる10日間、人と会うのは最小限に控え、外出時のマスク着用を求める」など新たな対策案を呈示。ふと気になるのはこの「中国全土」に香港は入るのかどうか。答えがないので厚生労働省の健康局結核感染症課にお忙しいのだろうから恐縮し手短にお尋ねすると担当官は大型連休の最中にほんと大変なんだよなぁという疲れた声で「あ、あれですが、大臣が昨日そのようなコメントしただけで、まだ……」と具体的にどの程度の施行なのか香港を含む含まないとか香港は?といった判断は何もされていないそうな。よくあることだがトップが細かいこと考慮も把握もせぬまま公言してしまい部署がそれに齷齪する、というよくありがちな話。ただ大臣のこの一言で大型連休中に数千人帰国するといわれている中国からの罹災邦人がどれだけ影響されるのか、厚生省、各都道府県の対応、ましてや人権問題にかかわることで、厚生省の担当にしてみれば困難なことを大臣はよくも簡単に口にしてくれて、というのが本音だろうか。中国といへば、この感染拡散、問題は超級伝播者(Super Sprender)と云われる拡散元凶者がまだ何人か発見されていないことらしい。この感染者、本人には余り自覚症状もなく、それでいて強烈な菌を保有しそれを撒き散らしている、と。内蒙古への拡散もこのSSである空中小姐による伝播であったとか。