富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月一日(木)労働節。小雨。昼すぎに出街。地下鉄でばったり湾仔の六国ホテルの総支配人L氏と遇う。競馬の予想もらい、さふいへば先週末の日曜晩もこの時節にしては粤軒はそこそこ客あり、と話題振ると、L氏曰く営業厳しいのは事実だが疫禍不幸中の幸いは常連客が新奇の飲食店だの衛生的に不安な店を避け、やはり水準高いホテルが安心か、期待より来客あり、と。ただしなんでもない火曜日夜に繁盛し昨晩のような祝日前夜に閑散であったりと客足読めぬそうな。宿泊は惨澹たるもので回復は10月まで待たねばならぬだろう、と。湾仔の北京水餃皇にて韮菜猪肉水餃麺。この水餃子なる物言い、この水餃子こそ餃子であって、日本の焼餃子であるとか上海の鍋貼が亜流なのだろうが、子どもの頃、当時日本では餃子といへば焼餃子であった頃に郷里の町に盧山という美味い中華料理屋があり、ここで水餃子を出していたが、味はよくても子どもながらにこの「水餃子」の水という字と音がどうも水っぽそうで、料理の名前で「水」はないだろうに、と思っていたのだが、20年ほど前に北京から東北を旅した際に、この砂漠の如き土地にあってバザバサした料理が多いなかで穀物といへば饅頭のボザボザに対して水餃子という料理のもつ潤いが如何に旨さにつなががるかを知って、水餃という音を体感したものだったが、やはり香港でだと「水餃」というと、どうもやっぱり水っぽくていけない。湾仔の場外にて今日の競馬の前半戦の馬券買ってジム。鍛錬。15時半よりの第6レース目指して沙田の競馬場。譚氏にQE II Cupの時のデジカメ写真印画したもの差し上げる。かなり喜ばれる。馬主C氏のDashing ChampionがClass-2の1600m芝に参戦。苦手な沙田であるが調教での試走の時計よく、しかもいつもの李格力君体調崩し騎手はDye君というのも面白し。期待してC氏の子息C君と観戦。出走でハナをとりたがるのがDashing Championで、それをどう抑えるかが勝利の鍵なのだがDye騎手は抑えきかずハナに立ってレース引っ張ってしまい5着に甘んじる。今日は地元若手騎手が成績パッとせぬ馬で勝ってばかり、と重賞レースの翌回にありがちな展開続く。当然馬劵とれず。普段なら広東省への向う人たちで混雑する休日のKCRも閑散。バスも運行が間引きされているようで、引切りなしに来る隧道バスで10分ほど待つほど。ジムに戻り帰宅。ちらし寿司。フーコーのCollege de France講義集5『異常者たち』(筑摩書房)より1975年1月15日の講義を読む。抑圧の問題。フーコー癩病とペストを例に挙げる。癩病は「排除」であり、厳密に分轄すること、距離を置くこと、個人と個人或いは集団と集団が接触しないこと、という前提で、具体的には癩者を城壁=共同体の向う側に締め出すことが行われ、排除され追放された人々の<価値>が剥脱され、外へ旅立つことは二度と戻らないことであり、それは死の宣告、財産までが譲渡可だった。こうした追放は都市からの浮動人口の排除など様々な形で歴史に続いているのだが、この排除行為の一方にペストに見られる管理のモデルがある。これは都市の網羅的警備であり、患者の封じ込めであり、これをフーコーは18世紀に起こった最も重要な出来事、としている。この封じ込めは地域の最も微細な要素にまで至る分析であり、その地域を貫く切れ目ない権力の組織化であり、この封鎖された都市においては中断のない監視が行われる、と。そして感染者は狩り出されるのではなく、一人一人に指定された場所が与えられ、たえずそこにいるかどうか監査される。感染者と非感染者は大別されるのではなく、大切なことはその二者に「不断に観察された一連の差異」が問題になる。この観察により健康、生命、寿命、個人の力が最大限にまで導かれ健康な住民集団を産出することが目的となる。つまり、癩病の追放と排除というネガティブな反応に対して、封じ込め、観察、知の形成、観察と知の積み重ねによる権力の効果増大といったポジティブな反応への変化がなされた。この、恒常的な検査が行われ、市民は一人一人が絶え間なく評価され、規則に適っているか、定められた健康の規格にあっているかが観察される、と、まさにキョービの新型肺炎もこの観察下に我々は今、ある。北京からの日本人の、これも「脱北」と云うのかやはり、を過剰反応と思っていたが、昨日、中国駐在の長かったA氏曰く、文革であれ天安門事件であれ今回の肺炎であれ、中国にいてああいう予測不能の事態がおきたらとにかく国外退去しかない、と。状況など全くわからないまま住宅だの会社だので軟禁、封鎖されてしまっては二進も三進もいかず、香港でもマンション封鎖などあったがまだテレビなどで外部状況つかめるだけマシかも。肺炎の感染に逃げるというより行政措置の断行避けるため逃げるということか。ディケンズ“David Copperfield”岩波文庫三巻目読む。

五月一日(木)労働節。小雨。昼すぎに出街。地下鉄でばったり湾仔の六国ホテルの総支配人L氏と遇う。競馬の予想もらい、さふいへば先週末の日曜晩もこの時節にしては粤軒はそこそこ客あり、と話題振ると、L氏曰く営業厳しいのは事実だが疫禍不幸中の幸いは常連客が新奇の飲食店だの衛生的に不安な店を避け、やはり水準高いホテルが安心か、期待より来客あり、と。ただしなんでもない火曜日夜に繁盛し昨晩のような祝日前夜に閑散であったりと客足読めぬそうな。宿泊は惨澹たるもので回復は10月まで待たねばならぬだろう、と。湾仔の北京水餃皇にて韮菜猪肉水餃麺。この水餃子なる物言い、この水餃子こそ餃子であって、日本の焼餃子であるとか上海の鍋貼が亜流なのだろうが、子どもの頃、当時日本では餃子といへば焼餃子であった頃に郷里の町に盧山という美味い中華料理屋があり、ここで水餃子を出していたが、味はよくても子どもながらにこの「水餃子」の水という字と音がどうも水っぽそうで、料理の名前で「水」はないだろうに、と思っていたのだが、20年ほど前に北京から東北を旅した際に、この砂漠の如き土地にあってバザバサした料理が多いなかで穀物といへば饅頭のボザボザに対して水餃子という料理のもつ潤いが如何に旨さにつなががるかを知って、水餃という音を体感したものだったが、やはり香港でだと「水餃」というと、どうもやっぱり水っぽくていけない。湾仔の場外にて今日の競馬の前半戦の馬券買ってジム。鍛錬。15時半よりの第6レース目指して沙田の競馬場。譚氏にQE II Cupの時のデジカメ写真印画したもの差し上げる。かなり喜ばれる。馬主C氏のDashing ChampionがClass-2の1600m芝に参戦。苦手な沙田であるが調教での試走の時計よく、しかもいつもの李格力君体調崩し騎手はDye君というのも面白し。期待してC氏の子息C君と観戦。出走でハナをとりたがるのがDashing Championで、それをどう抑えるかが勝利の鍵なのだがDye騎手は抑えきかずハナに立ってレース引っ張ってしまい5着に甘んじる。今日は地元若手騎手が成績パッとせぬ馬で勝ってばかり、と重賞レースの翌回にありがちな展開続く。当然馬劵とれず。普段なら広東省への向う人たちで混雑する休日のKCRも閑散。バスも運行が間引きされているようで、引切りなしに来る隧道バスで10分ほど待つほど。ジムに戻り帰宅。ちらし寿司。フーコーのCollege de France講義集5『異常者たち』(筑摩書房)より1975年1月15日の講義を読む。抑圧の問題。フーコー癩病とペストを例に挙げる。癩病は「排除」であり、厳密に分轄すること、距離を置くこと、個人と個人或いは集団と集団が接触しないこと、という前提で、具体的には癩者を城壁=共同体の向う側に締め出すことが行われ、排除され追放された人々の<価値>が剥脱され、外へ旅立つことは二度と戻らないことであり、それは死の宣告、財産までが譲渡可だった。こうした追放は都市からの浮動人口の排除など様々な形で歴史に続いているのだが、この排除行為の一方にペストに見られる管理のモデルがある。これは都市の網羅的警備であり、患者の封じ込めであり、これをフーコーは18世紀に起こった最も重要な出来事、としている。この封じ込めは地域の最も微細な要素にまで至る分析であり、その地域を貫く切れ目ない権力の組織化であり、この封鎖された都市においては中断のない監視が行われる、と。そして感染者は狩り出されるのではなく、一人一人に指定された場所が与えられ、たえずそこにいるかどうか監査される。感染者と非感染者は大別されるのではなく、大切なことはその二者に「不断に観察された一連の差異」が問題になる。この観察により健康、生命、寿命、個人の力が最大限にまで導かれ健康な住民集団を産出することが目的となる。つまり、癩病の追放と排除というネガティブな反応に対して、封じ込め、観察、知の形成、観察と知の積み重ねによる権力の効果増大といったポジティブな反応への変化がなされた。この、恒常的な検査が行われ、市民は一人一人が絶え間なく評価され、規則に適っているか、定められた健康の規格にあっているかが観察される、と、まさにキョービの新型肺炎もこの観察下に我々は今、ある。北京からの日本人の、これも「脱北」と云うのかやはり、を過剰反応と思っていたが、昨日、中国駐在の長かったA氏曰く、文革であれ天安門事件であれ今回の肺炎であれ、中国にいてああいう予測不能の事態がおきたらとにかく国外退去しかない、と。状況など全くわからないまま住宅だの会社だので軟禁、封鎖されてしまっては二進も三進もいかず、香港でもマンション封鎖などあったがまだテレビなどで外部状況つかめるだけマシかも。肺炎の感染に逃げるというより行政措置の断行避けるため逃げるということか。ディケンズ“David Copperfield”岩波文庫三巻目読む。